芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雛《ひな》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|対《つゐ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)けげん[#「けげん」に傍点]さうに
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[#地から3字上げ]箱を出る顔忘れめや雛《ひな》二|対《つゐ》  蕪村

 これは或老女の話である。

 ……横浜の或|亜米利加《アメリカ》人へ雛《ひな》を売る約束の出来たのは十一月頃のことでございます。紀の国屋と申したわたしの家は親代々諸大名のお金御用を勤めて居りましたし、殊《こと》に紫竹《しちく》とか申した祖父は大通《だいつう》の一人にもなつて居りましたから、雛もわたしのではございますが、中々見事に出来て居りました。まあ、申さば、内裏雛《だいりびな》は女雛《めびな》の冠の瓔珞《やうらく》にも珊瑚《さんご》がはひつて居りますとか、男雛《をびな》の塩瀬《しほぜ》の石帯《せきたい》にも定紋《ぢやうもん》と替へ紋とが互違ひに繍《ぬ》ひになつて居りますとか、さう云ふ雛だつたのでございます。
 それさへ売らうと申すのでございますから、わたしの父、十二代目の紀の国屋伊兵衛はどの位手もとが苦しかつたか、大抵御推量にもなれるでございませう。何しろ徳川家《とくせんけ》の御瓦解《ごぐわかい》以来、御用金を下げて下すつたのは加州様ばかりでございます。それも三千両の御用金の中、百両しか下げては下さいません。因州様などになりますと、四百両ばかりの御用金のかたに赤間《あかま》が石の硯《すずり》を一つ下すつただけでございました。その上火事には二三度も遇ひますし、蝙蝠傘屋《かうもりがさや》などをやりましたのも皆手違ひになりますし、当時はもう目ぼしい道具もあらかた一家の口すごしに売り払つてゐたのでございます。
 其処《そこ》へ雛でも売つたらと父へ勧めてくれましたのは丸佐と云ふ骨董屋《こつとうや》の、……もう故人になりましたが、禿《は》げ頭《あたま》の主人でございます。この丸佐の禿げ頭位、可笑《をか》しかつたものはございません。と申すのは頭のまん中に丁度|按摩膏《あんまかう》を貼つた位、入れ墨がしてあるのでございます。これは何でも若い時分、ちよいと禿げを隠す為に彫らせたのださうでございますが、生憎《あいにく》その後頭の方は遠慮なしに禿げて
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