通りだった。が、何かその間に不思議な変化が起っていた。何か?――広子はたちまちこの変化を油画の上に発見した。机の上の玉葱《たまねぎ》だの、繃帯《ほうたい》をした少女の顔だの、芋畠《いもばたけ》の向うの監獄だのはいつの間《ま》にかどこかへ消え失《う》せていた。あるいは消え失せてしまわないまでも、二年前には見られなかった、柔かい明るさを呼吸していた。殊に広子は正面《しょうめん》にある一枚の油画に珍らしさを感じた。それはどこかの庭を描《えが》いた六号ばかりの小品《しょうひん》だった。白茶《しらちゃ》けた苔《こけ》に掩《おお》われた木々と木末《こずえ》に咲いた藤の花と木々の間に仄《ほの》めいた池と、――画面にはそのほかに何もなかった。しかしそこにはどの画《え》よりもしっとりした明るさが漂《ただよ》っていた。
「あなたの画、あそこにあるのも?」
辰子は後《うし》ろを振り向かずに、姉の指《ゆびさ》した画を推察した。
「あの画? あれは大村《おおむら》の。」
大村は篤介の苗字《みょうじ》だった。広子は「大村の」に微笑を感じた。が、一瞬間|羨《うらや》ましさに似た何ものかを感じたのも事実だった。しかし辰子は無頓着《むとんじゃく》に羽織の紐《ひも》をいじりいじり、落ち着いた声に話しつづけた。
「田舎《いなか》の家《うち》の庭を描《か》いたのですって。――大村の家は旧家なんですって。」
「今は何をしているの?」
「県会議員か何《なん》かでしょう。銀行や会社も持っているようよ。」
「あの人は次男か三男かなの?」
「長男――って云うのかしら? 一人きりしかいないんですって。」
広子はいつか彼等の話が当面の問題へはいり出した、――と言うよりもむしろその一部を解決していたのに気がついた。今度の事件を聞かされて以来、彼女の気がかりになっていたのはやはり篤介の身分《みぶん》だった。殊に貧しげな彼の身なりはこの世俗的な問題に一層の重みを加えていた。それを今彼等の問答は無造作《むぞうさ》に片づけてしまったのだった。ふとその事実に気のついた広子は急に常談《じょうだん》を言う寛《くつろ》ぎを感じた。
「じゃ立派《りっぱ》な若旦那様なのね。」
「ええ、ただそりゃボエエムなの。下宿《げしゅく》も妙なところにいるのよ。羅紗屋《らしゃや》の倉庫《そうこ》の二階を借りているの。」
辰子はほとんど狡猾《こうかつ》そうにちらりと姉へ微笑を送った。広子はこの微笑の中に突然|一人前《いちにんまえ》の女を捉《とら》えた。もっともこれは東京駅へ出迎えた妹を見た時から、時々意識へ上《のぼ》ることだった。けれどもまだ今のように、はっきり焦点の合ったことはなかった。広子はその意識と共にたちまち篤介との関係にも多少の疑惑を抱き出した。
「あなたもそこへ行ったことがあるの?」
「ええ、たびたび行ったことがあるわ。」
広子の聯想《れんそう》は結婚前のある夜《よ》の記憶を呼び起した。母はその夜《よ》風呂《ふろ》にはいりながら、彼女に日どりのきまったことを話した。それから常談《じょうだん》とも真面目《まじめ》ともつかずに体の具合《ぐあい》を尋ねたりした。生憎《あいにく》その夜の母のように淡白な態度に出られなかった彼女は、今もただじっと妹の顔を見守るよりほかに仕かたはなかった。しかし辰子は不相変《あいかわらず》落ち着いた微笑を浮べながら、眩《まぶ》しそうに黄色い電燈の笠へ目をやっているばかりだった。
「そんなことをしてもかまわないの?」
「大村が?」
「いいえ、あなたがよ。誤解でもされたら、迷惑じゃなくって?」
「どうせ誤解はされ通しよ。何しろ研究所の連中と来たら、そりゃ口がうるさいんですもの。」
広子はちょっと苛立《いらだ》たしさを感じた。のみならず取り澄ました妹の態度も芝居ではないかと言う猜疑《さいぎ》さえ生じた。すると辰子は弄《もてあそ》んでいた羽織の紐《ひも》を投げるようにするなり、突然こう言う問《とい》を発した。
「母《かあ》さんは許して下さるでしょうか?」
広子はもう一度|苛立《いらだ》たしさを感じた。それは恬然《てんぜん》と切りこんで来る妹に対する苛立たしさでもあれば、だんだん受太刀《うけだち》になって来る彼女自身に対する苛立たしさでもあった。彼女は篤介の油画へ浮かない目を遊ばせたまま「そうねえ」と煮《に》え切らない返事をした。
「姉さんから話していただけない?」
辰子はやや甘えるように広子の視線を捉《とら》えようとした。
「わたしから話すったって、――わたしもあなたたちのことは知らないじゃないの?」
「だから聞いて頂戴《ちょうだい》って言っているのよ。それをちっとも姉さんは聞く気になってくれないんですもの。」
広子はこの話のはじまった時、辰子のしばらく沈黙したのを話し悪《
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