こ」に傍点]をしました。」

     八

 或三月の夜《よ》、僕はペンを休めた時、ふとニツケルの懐中時計の進んでゐるのを発見した。隣室の掛け時計は十時を打つてゐる。が、懐中時計は十時半になつてゐる。僕は懐中時計を置き火燵《ごたつ》の上に置き、丁寧《ていねい》に針を十時へ戻した。それから又ペンを動かし出した。時間と云ふものはかう云ふ時ほど、存外《ぞんぐわい》急に過ぎることはない。掛け時計は今度は十一時を打つた。僕はペンを持つたまま、懐中時計へ目をやると、――今度は不思議にも十二時になつてゐた。懐中時計は暖まると、針を早くまはすのかしら?

     九

 誰か椅子の上に爪を磨いてゐる。誰か窓の前にレエスをかがつてゐる。誰かやけに花をむしつてゐる。誰かそつと鸚鵡《あうむ》を絞め殺してゐる。誰か小さいレストランの裏の煙突の下に眠つてゐる。誰か帆前船《ほまへせん》の帆をあげてゐる。誰か柔い白パンに木炭画の線を拭つてゐる。誰か瓦斯《ガス》の※[#「均−土へん」、第3水準1−14−75]《にほひ》の中にシヤベルの泥をすくひ上げてゐる。誰か、――ではない。まるまると肥つた紳士が一人《ひとり》、「詩韻含英《しゐんがんえい》」を拡げながら、未《いま》だに春宵《しゆうせう》の詩を考へてゐる。……[#地から1字上げ](昭和二・二・五)



底本:「芥川龍之介作品集第四巻」昭和出版社
   1965(昭和40)年12月20日発行
※底本の「アスフアルトの住来」」は、「アスフアルトの往来」にあらためました。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月27日公開
2003年10月7日修正
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