浪打際《なみうちぎわ》を独り御出でになる、――見れば御手《おて》には何と云うのか、笹の枝に貫いた、小さい魚を下げていらっしゃいました。
「僧都《そうず》の御房《ごぼう》! よく御無事でいらっしゃいました。わたしです! 有王《ありおう》です!」
わたしは思わず駈け寄りながら、嬉しまぎれにこう叫びました。
「おお、有王か!」
俊寛様は驚いたように、わたしの顔を御覧になりました。が、もうわたしはその時には、御主人の膝を抱《だ》いたまま、嬉し泣きに泣いていたのです。
「よく来たな。有王! おれはもう今生《こんじょう》では、お前にも会えぬと思っていた。」
俊寛様もしばらくの間《あいだ》は、涙ぐんでいらっしゃるようでしたが、やがてわたしを御抱き起しになると、
「泣くな。泣くな。せめては今日《きょう》会っただけでも、仏菩薩《ぶつぼさつ》の御慈悲《ごじひ》と思うが好《よ》い。」と、親のように慰めて下さいました。
「はい、もう泣きは致しません。御房《ごぼう》は、――御房の御住居《おすまい》は、この界隈《かいわい》でございますか?」
「住居か? 住居はあの山の陰《かげ》じゃ。」
俊寛様は魚を下げた御手に、間近い磯山《いそやま》を御指しになりました。
「住居と云っても、檜肌葺《ひわだぶ》きではないぞ。」
「はい、それは承知して居ります。何しろこんな離れ島でございますから、――」
わたしはそう云いかけたなり、また涙に咽《むせ》びそうにしました。すると御主人は昔のように、優しい微笑を御見せになりながら、
「しかし居心《いごころ》は悪くない住居じゃ。寝所《ねどころ》もお前には不自由はさせぬ。では一しょに来て見るが好《よ》い。」と、気軽に案内をして下さいました。
しばらくの後《のち》わたしたちは、浪ばかり騒がしい海べから、寂しい漁村《ぎょそん》へはいりました。薄白い路の左右には、梢《こずえ》から垂れた榕樹《あこう》の枝に、肉の厚い葉が光っている、――その木の間に点々と、笹葺《ささぶ》きの屋根を並べたのが、この島の土人の家なのです。が、そう云う家の中に、赤々《あかあか》と竈《かまど》の火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ来たと云う、懐《なつか》しい気もちだけはして来ました。
御主人は時々振り返りながら、この家にいるのは琉球人《りゅうきゅうじん》だとか、あの檻《おり》には豕《いのこ》が飼ってあるとか、いろいろ教えて下さいました。しかしそれよりも嬉しかったのは、烏帽子《えぼし》さえかぶらない土人の男女が、俊寛様の御姿を見ると、必ず頭を下げた事です。殊に一度なぞはある家の前に、鶏《とり》を追っていた女の児さえ、御時宜《おじぎ》をしたではありませんか? わたしは勿論嬉しいと同時に、不思議にも思ったものですから、何か訳のある事かと、そっと御主人に伺《うかが》って見ました。
「成経《なりつね》様や康頼《やすより》様が、御話しになった所では、この島の土人も鬼《おに》のように、情《なさけ》を知らぬ事かと存じましたが、――」
「なるほど、都にいるものには、そう思われるに相違あるまい。が、流人《るにん》とは云うものの、おれたちは皆|都人《みやこびと》じゃ。辺土《へんど》の民はいつの世にも、都人と見れば頭を下げる。業平《なりひら》の朝臣《あそん》、実方《さねかた》の朝臣、――皆大同小異ではないか? ああ云う都人もおれのように、東《あずま》や陸奥《みちのく》へ下《くだ》った事は、思いのほか楽しい旅だったかも知れぬ。」
「しかし実方の朝臣などは、御隠れになった後《のち》でさえ、都恋しさの一念から、台盤所《だいばんどころ》の雀《すずめ》になったと、云い伝えて居《お》るではありませんか?」
「そう云う噂《うわさ》を立てたものは、お前と同じ都人じゃ。鬼界《きかい》が島《しま》の土人と云えば、鬼のように思う都人じゃ。して見ればこれも当てにはならぬ。」
その時また一人御主人に、頭を下げた女がいました。これはちょうど榕樹《あこう》の陰に、幼な児を抱いていたのですが、その葉に後《うしろ》を遮《さえぎ》られたせいか、紅染《べにぞ》めの単衣《ひとえ》を着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。すると御主人はこの女に、優《やさ》しい会釈《えしゃく》を返されてから、
「あれが少将の北《きた》の方《かた》じゃぞ。」と、小声に教えて下さいました。
わたしはさすがに驚きました。
「北《きた》の方《かた》と申しますと、――成経様はあの女と、夫婦になっていらしったのですか?」
俊寛様は薄笑いと一しょに、ちょいと頷《うなず》いて御見せになりました。
「抱いていた児も少将の胤《たね》じゃよ。」
「なるほど、そう伺って見れば、こう云う辺土《へんど》にも似合わない、美しい顔をして居り
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