りではない。――一体あの時おれの所へ、船のはいったのを知らせたのは、この島にいる琉球人《りゅうきゅうじん》じゃ。それが浜べから飛んで来ると、息も切れ切れに船々と云う。船はまずわかったものの、何の船がはいって来たのか、そのほかの言葉はさっぱりわからぬ。あれはあの男もうろたえた余り、日本語と琉球語とを交《かわ》る交《がわ》る、饒舌《しゃべ》っていたのに違いあるまい。おれはともかくも船と云うから、早速浜べへ出かけて見た。すると浜べにはいつのまにか、土人が大勢《おおぜい》集っている。その上に高い帆柱《ほばしら》のあるのが、云うまでもない迎いの船じゃ。おれもその船を見た時には、さすがに心が躍《おど》るような気がした。少将や康頼《やすより》はおれより先に、もう船の側へ駈けつけていたが、この喜びようも一通りではない。現にあの琉球人なぞは、二人とも毒蛇《どくじゃ》に噛《か》まれた揚句《あげく》、気が狂ったのかと思うたくらいじゃ。その内に六波羅《ろくはら》から使に立った、丹左衛門尉基安《たんのさえもんのじょうもとやす》は、少将に赦免《しゃめん》の教書を渡した。が、少将の読むのを聞けば、おれの名前がはいっていない。おれだけは赦免にならぬのじゃ。――そう思ったおれの心の中《うち》には、わずか一弾指《いちだんし》の間《あいだ》じゃが、いろいろの事が浮んで来た。姫や若《わか》の顔、女房《にょうぼう》の罵《ののし》る声、京極《きょうごく》の屋形《やかた》の庭の景色、天竺《てんじく》の早利即利兄弟《そうりそくりきょうだい》、震旦《しんたん》の一行阿闍梨《いちぎょうあじゃり》、本朝の実方《さねかた》の朝臣《あそん》、――とても一々数えてはいられぬ。ただ今でも可笑《おか》しいのは、その中にふと車を引いた、赤牛《あかうし》の尻が見えた事じゃ。しかしおれは一心に、騒《さわ》がぬ容子《ようす》をつくっていた。勿論少将や康頼は、気の毒そうにおれを慰めたり、俊寛も一しょに乗せてくれいと、使にも頼んだりしていたようじゃ。が、赦免の下《くだ》らぬものは、何をどうしても、船へは乗れぬ。おれは不動心を振い起しながら、何故《なぜ》おれ一人赦免に洩《も》れたか、その訳をいろいろ考えて見た。高平太《たかへいだ》はおれを憎んでいる。――それも確かには違いない。しかし高平太は憎《にく》むばかりか、内心おれを恐れている。おれは前《さき》の法勝寺《ほっしょうじ》の執行《しゅぎょう》じゃ。兵仗《へいじょう》の道は知る筈がない。が、天下は思いのほか、おれの議論に応ずるかも知れぬ。――高平太はそこを恐れているのじゃ。おれはこう考えたら、苦笑《くしょう》せずにはいられなかった。山門や源氏《げんじ》の侍どもに、都合《つごう》の好《い》い議論を拵《こしら》えるのは、西光法師《さいこうほうし》などの嵌《はま》り役じゃ。おれは眇《びょう》たる一|平家《へいけ》に、心を労するほど老耄《おいぼ》れはせぬ。さっきもお前に云うた通り、天下は誰でも取っているが好《い》い。おれは一巻の経文《きょうもん》のほかに、鶴《つる》の前《まえ》でもいれば安堵《あんど》している。しかし浄海入道《じょうかいにゅうどう》になると、浅学短才の悲しさに、俊寛も無気味《ぶきみ》に思うているのじゃ。して見れば首でも刎《は》ねられる代りに、この島に一人残されるのは、まだ仕合せの内かも知れぬ。――そんな事を思うている間《あいだ》に、いよいよ船出と云う時になった。すると少将の妻になった女が、あの赤児を抱いたまま、どうかその船に乗せてくれいと云う。おれは気の毒に思うたから、女は咎《とが》めるにも及ぶまいと、使の基安《もとやす》に頼んでやった。が、基安は取り合いもせぬ。あの男は勿論役目のほかは、何一つ知らぬ木偶《でく》の坊じゃ。おれもあの男は咎めずとも好《い》い。ただ罪の深いのは少将じゃ。――」
 俊寛様は御腹立たしそうに、ばたばた芭蕉扇《ばしょうせん》を御使いなさいました。
「あの女は気違いのように、何でも船へ乗ろうとする。舟子《ふなご》たちはそれを乗せまいとする。とうとうしまいにあの女は、少将の直垂《ひたたれ》の裾《すそ》を掴《つか》んだ。すると少将は蒼《あお》い顔をしたまま、邪慳《じゃけん》にその手を刎《は》ねのけたではないか? 女は浜べに倒れたが、それぎり二度と乗ろうともせぬ。ただおいおい泣くばかりじゃ。おれはあの一瞬間、康頼《やすより》にも負けぬ大嗔恚《だいしんい》を起した。少将は人畜生《じんちくしょう》じゃ。康頼もそれを見ているのは、仏弟子《ぶつでし》の所業《しょぎょう》とも思われぬ。おまけにあの女を乗せる事は、おれのほかに誰も頼まなかった。――おれはそう思うたら、今でも不思議な気がするくらい、ありとあらゆる罵詈讒謗《ばりざんぼう》が、口を
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