かれたのに相違ない。その嗔恚の源《みなもと》はと云えば、やはり増長慢《ぞうじょうまん》のなせる業《わざ》じゃ。平家《へいけ》は高平太《たかへいだ》以下皆悪人、こちらは大納言《だいなごん》以下皆善人、――康頼はこう思うている。そのうぬ惚《ぼ》れがためにならぬ。またさっきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同様なのじゃ。が、康頼の腹を立てるのが好《よ》いか、少将のため息をするのが好いか、どちらが好いかはおれにもわからぬ。」
「成経《なりつね》様御一人だけは、御妻子もあったそうですから、御|紛《まぎ》れになる事もありましたろうに。」
「ところが始終蒼い顔をしては、つまらぬ愚痴《ぐち》ばかりこぼしていた。たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云う。何でもそこにある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ。一度なぞはおれと一しょに、磯山《いそやま》へ※[#「蠧」の「虫」二つに代えて「木」、第4水準2−15−30]吾《つわ》を摘《つ》みに行ったら、ああ、わたしはどうすれば好《よ》いのか、ここには加茂川《かもがわ》の流れもないと云うた。おれがあの時吹き出さなかったのは、我立つ杣《そま》の地主権現《じしゅごんげん》、日吉《ひよし》の御冥護《ごみょうご》に違いない。が、おれは莫迦莫迦《ばかばか》しかったから、ここには福原《ふくはら》の獄《ひとや》もない、平相国《へいしょうこく》入道浄海《にゅうどうじょうかい》もいない、難有《ありがた》い難有いとこう云うた。」
「そんな事をおっしゃっては、いくら少将でも御腹立ちになりましたろう。」
「いや、怒《おこ》られれば本望じゃ。が、少将はおれの顔を見ると、悲しそうに首を振りながら、あなたには何もおわかりにならない、あなたは仕合せな方《かた》ですと云うた。ああ云う返答は、怒られるよりも難儀じゃ。おれは、――実はおれもその時だけは、妙に気が沈んでしもうた。もし少将の云うように、何もわからぬおれじゃったら、気も沈まずにすんだかも知れぬ。しかしおれにはわかっているのじゃ。おれも一時は少将のように、眼の中の涙を誇ったことがある。その涙に透《す》かして見れば、あの死んだ女房《にょうぼう》も、どのくらい美しい女に見えたか、――おれはそんな事を考えると、急に少将が気の毒になった。が、気の毒になって見ても、可笑《おか》しいものは可笑しいではないか? そこでおれは笑いながら、言葉だけは真面目《まじめ》に慰めようとした。おれが少将に怒られたのは、跡にも先にもあの時だけじゃ。少将はおれが慰めてやると、急に恐しい顔をしながら、嘘をおつきなさい。わたしはあなたに慰められるよりも、笑われる方が本望ですと云うた。その途端《とたん》に、――妙ではないか? とうとうおれは吹き出してしもうた。」
「少将はどうなさいました?」
「四五日の間はおれに遇《お》うても、挨拶《あいさつ》さえ碌《ろく》にしなかった。が、その後《のち》また遇うたら、悲しそうに首を振っては、ああ、都へ返りたい、ここには牛車《ぎっしゃ》も通らないと云うた。あの男こそおれより仕合せものじゃ。――が、少将や康頼《やすより》でも、やはり居らぬよりは、いた方が好《よ》い。二人に都へ帰られた当座、おれはまた二年ぶりに、毎日寂しゅうてならなかった。」
「都の噂《うわさ》では御寂しいどころか、御歎き死《じ》にもなさり兼ねない、御容子《ごようす》だったとか申していました。」
わたしは出来るだけ細々《こまごま》と、その御噂を御話しました。琵琶法師《びわほうし》の語る言葉を借りれば、
「天に仰ぎ地に俯《ふ》し、悲しみ給えどかいぞなき。……猶《なお》も船の纜《ともづな》に取りつき、腰になり脇になり、丈《たけ》の及ぶほどは、引かれておわしけるが、丈も及ばぬほどにもなりしかば、また空《むな》しき渚《なぎさ》に泳ぎ返り、……是具《これぐ》して行けや、我《われ》乗せて行けやとて、おめき叫び給えども、漕《こ》ぎ行く船のならいにて、跡は白浪《しらなみ》ばかりなり。」と云う、御狂乱《ごきょうらん》の一段を御話したのです。俊寛様は御珍しそうに、その話を聞いていらっしゃいましたが、まだ船の見える間《あいだ》は、手招《てまね》ぎをなすっていらしったと云う、今では名高い御話をすると、
「それは満更《まんざら》嘘ではない。何度もおれは手招《てまね》ぎをした。」と、素直《すなお》に御頷《おうなず》きなさいました。
「では都の噂通り、あの松浦《まつら》の佐用姫《さよひめ》のように、御別れを御惜しみなすったのですか?」
「二年の間同じ島に、話し合うた友だちと別れるのじゃ。別れを惜しむのは当然ではないか? しかし何度も手招ぎをしたのは、別れを惜しんだばか
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