上げました。それはこの島へ渡るものには、門司《もじ》や赤間《あかま》が関《せき》を船出する時、やかましい詮議《せんぎ》があるそうですから、髻《もとどり》に隠して来た御文《おふみ》なのです。御主人は早速《さっそく》燈台の光に、御消息をおひろげなさりながら、ところどころ小声に御読みになりました。
「……世の中かきくらして晴るる心地なく侍《はべ》り。……さても三人《みたり》一つ島に流されけるに、……などや御身《おんみ》一人残り止まり給うらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前の御許《おんもと》に侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかなる住居《すまい》推《お》し量《はか》り給え。……さてもこの三とせまで、いかに御心《みこころ》強く、有《う》とも無《む》とも承わらざるらん。……とくとく御上《おんのぼ》り候え。恋しとも恋し。ゆかしともゆかし。……あなかしこ、あなかしこ。……」
俊寛様は御文を御置きになると、じっと腕組みをなすったまま、大きい息をおつきになりました。
「姫はもう十二になった筈じゃな。――おれも都には未練《みれん》はないが、姫にだけは一目会いたい。」
わたしは御心中《ごしんちゅう》を思いやりながら、ただ涙ばかり拭《ぬぐ》っていました。
「しかし会えぬものならば、――泣くな。有王《ありおう》。いや、泣きたければ泣いても好《よ》い。しかしこの娑婆《しゃば》世界には、一々泣いては泣き尽せぬほど、悲しい事が沢山あるぞ。」
御主人は後《うしろ》の黒木《くろき》の柱に、ゆっくり背中を御寄せになってから、寂しそうに御微笑なさいました。
「女房《にょうぼう》も死ぬ。若《わか》も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形《やかた》や山荘もおれの物ではない。おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。――これがおれの今のさまじゃ。が、この苦艱《くげん》を受けているのは、何もおれ一人に限った事ではない。おれ一人|衆苦《しゅうく》の大海に、没在《ぼつざい》していると考えるのは、仏弟子《ぶつでし》にも似合わぬ増長慢《ぞうじょうまん》じゃ。『増長驕慢《ぞうじょうきょうまんは》、尚非世俗白衣所宜《なおせぞくびゃくえのよろしきところにあらず》。』艱難《かんなん》の多いのに誇る心も、やはり邪業《じゃごう》には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散辺土《ぞくさんへんど》の中《うち》にも、おれほどの苦を受けているものは、恒河沙《ごうがしゃ》の数《かず》より多いかも知れぬ。いや、人界《にんがい》に生れ出たものは、たといこの島に流されずとも、皆おれと同じように、孤独の歎《たん》を洩《も》らしているのじゃ。村上《むらかみ》の御門《みかど》第七の王子、二品中務親王《にほんなかつかさしんのう》、六代の後胤《こういん》、仁和寺《にんなじ》の法印寛雅《ほういんかんが》が子、京極《きょうごく》の源大納言雅俊卿《みなもとのだいなごんまさとしきょう》の孫に生れたのは、こう云う俊寛《しゅんかん》一人じゃが、天《あめ》が下《した》には千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛、百億の俊寛が流されているぞ。――」
俊寛様はこうおっしゃると、たちまちまた御眼《おんめ》のどこかに、陽気な御気色《みけしき》が閃《ひらめ》きました。
「一条二条の大路《おおじ》の辻に、盲人が一人さまようているのは、世にも憐《あわ》れに見えるかも知れぬ。が、広い洛中洛外《らくちゅうらくがい》、無量無数の盲人どもに、充ち満ちた所を眺めたら、――有王《ありおう》。お前はどうすると思う? おれならばまっ先にふき出してしまうぞ。おれの島流しも同じ事じゃ。十方《じっぽう》に遍満《へんまん》した俊寛どもが、皆ただ一人流されたように、泣きつ喚《わめ》きつしていると思えば、涙の中《うち》にも笑わずにはいられぬ。有王。三界一心《さんがいいっしん》と知った上は、何よりもまず笑う事を学べ。笑う事を学ぶためには、まず増長慢を捨てねばならぬ。世尊《せそん》の御出世《ごしゅっせい》は我々|衆生《しゅじょう》に、笑う事を教えに来られたのじゃ。大般涅槃《だいはつねはん》の御時《おんとき》にさえ、摩訶伽葉《まかかしょう》は笑ったではないか?」
その時はわたしもいつのまにか、頬《ほお》の上に涙が乾いていました。すると御主人は簾《すだれ》越しに、遠い星空を御覧になりながら、
「お前が都へ帰ったら、姫にも歎きをするよりは、笑う事を学べと云ってくれい。」と、何事もないようにおっしゃるのです。
「わたしは都へは帰りません。」
もう一度わたしの眼の中には、新たに涙が浮んで来ました。今度はそう云う御言葉を、御恨《おうら》みに思った涙なのです。
「わたしは都にいた時の通り、御側勤《おそばづと》めをするつもりです。年とった一人の
前へ
次へ
全11ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング