衝《つ》いて溢《あふ》れて来た。もっともおれの使ったのは、京童《きょうわらべ》の云う悪口《あっこう》ではない。八万法蔵《はちまんほうぞう》十二部経中《じゅうにぶきょうちゅう》の悪鬼羅刹《あっきらせつ》の名前ばかり、矢つぎ早に浴びせたのじゃ。が、船は見る見る遠ざかってしまう。あの女はやはり泣き伏したままじゃ。おれは浜べにじだんだを踏《ふ》みながら、返せ返せと手招ぎをした。」
御主人の御腹立ちにも関《かかわ》らず、わたしは御話を伺っている内に、自然とほほ笑《え》んでしまいました。すると御主人も御笑いになりながら、
「その手招ぎが伝わっているのじゃ。嗔恚の祟《たた》りはそこにもある。あの時おれが怒《おこ》りさえせねば、俊寛は都へ帰りたさに、狂いまわったなぞと云う事も、口《くち》の端《は》へ上《のぼ》らずにすんだかも知れぬ。」と、仕方がなさそうにおっしゃるのです。
「しかしその後《のち》は格別《かくべつ》に、御歎きなさる事はなかったのですか?」
「歎《なげ》いても仕方はないではないか? その上《うえ》時のたつ内には、寂しさも次第に消えて行った。おれは今では己身《こしん》の中《うち》に、本仏《ほんぶつ》を見るより望みはない。自土即浄土《じどそくじょうど》と観じさえすれば、大歓喜《だいかんぎ》の笑い声も、火山から炎《ほのお》の迸《ほどばし》るように、自然と湧《わ》いて来なければならぬ。おれはどこまでも自力《じりき》の信者じゃ。――おお、まだ一つ忘れていた。あの女は泣き伏したぎり、いつまでたっても動こうとせぬ。その内に土人も散じてしまう。船は青空に紛《まぎ》れるばかりじゃ。おれは余りのいじらしさに、慰めてやりたいと思うたから、そっと後手《うしろで》に抱《だ》き起そうとした。するとあの女はどうしたと思う? いきなりおれをはり倒したのじゃ。おれは目が眩《く》らみながら、仰向《あおむ》けにそこへ倒れてしもうた。おれの肉身に宿らせ給う、諸仏《しょぶつ》諸菩薩《しょぼさつ》諸明王《しょみょうおう》も、あれには驚かれたに相違ない。しかしやっと起き上って見ると、あの女はもう村の方へ、すごすご歩いて行く所じゃった。何、おれをはり倒した訳か? それはあの女に聞いたが好《よ》い。が、事によると人気《ひとけ》はなし、凌《りょう》ぜられるとでも思ったかも知れぬ。」
五
わたしは御
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