う大嗔恚《だいしんい》を起すようでは、現世利益《げんぜりやく》はともかくも、後生往生《ごしょうおうじょう》は覚束《おぼつか》ないものじゃ。――が、その内に困まった事には、少将もいつか康頼と一しょに、神信心を始めたではないか? それも熊野《くまの》とか王子《おうじ》とか、由緒《ゆいしょ》のある神を拝むのではない。この島の火山には鎮護《ちんご》のためか、岩殿《いわどの》と云う祠《ほこら》がある。その岩殿へ詣でるのじゃ。――火山と云えば思い出したが、お前はまだ火山を見た事はあるまい?」
「はい、たださっき榕樹《あこう》の梢《こずえ》に、薄赤い煙のたなびいた、禿《は》げ山の姿を眺めただけです。」
「では明日《あす》でもおれと一しょに、頂へ登って見るが好《よ》い。頂へ行けばこの島ばかりか、大海の景色は手にとるようじゃ。岩殿の祠も途中にある、――その岩殿へ詣でるのに、康頼はおれにも行けと云うたが、おれは容易《ようい》には行こうとは云わぬ。」
「都では僧都《そうず》の御房《ごぼう》一人、そう云う神詣でもなさらないために、御残されになったと申して居ります。」
「いや、それはそうかも知れぬ。」
 俊寛様は真面目《まじめ》そうに、ちょいと御首を御振りになりました。
「もし岩殿に霊があれば、俊寛一人を残したまま、二人の都返りを取り持つくらいは、何とも思わぬ禍津神《まがつがみ》じゃ。お前はさっきおれが教えた、少将の女房を覚えているか? あの女もやはり岩殿へ、少将がこの島を去らぬように、毎日毎夜詣でたものじゃ。所がその願《がん》は少しも通らぬ。すると岩殿と云う神は、天魔にも増した横道者《おうどうもの》じゃ。天魔には世尊御出世《せそんごしゅっせい》の時から、諸悪を行うと云う戒行《かいぎょう》がある。もし岩殿の神の代りに、天魔があの祠にいるとすれば、少将は都へ帰る途中、船から落ちるか、熱病になるか、とにかくに死んだのに相違ない。これが少将もあの女も、同時に破滅させる唯一の途《みち》じゃ。が、岩殿は人間のように、諸善ばかりも行わねば、諸悪ばかりも行わぬらしい。もっともこれは岩殿には限らぬ。奥州名取郡《おうしゅうなとりのこおり》笠島《かさじま》の道祖《さえ》は、都の加茂河原《かもがわら》の西、一条の北の辺《ほとり》に住ませられる、出雲路《いずもじ》の道祖《さえ》の御娘《おんむすめ》じゃ。が、この神は
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