く》を具《そな》へてゐなければならぬ。しかし僕の架上《かじやう》の書籍は集まつた書籍である証拠《しやうこ》に、頗《すこぶ》る糅然《じうぜん》紛然《ふんぜん》としてゐる。脈絡《みやくらく》などと云ふものは薬にしたくもない。
では全然|無茶苦茶《むちやくちや》かと云ふと、必《かならず》しも亦《また》さうではない。少くとも僕の架上《かじやう》の書籍は僕の好みを示してゐる。或はいろいろの時期に於《お》ける好みの変遷を示してゐる。その点では――僕と云ふものを示してゐる点では僕の作品と選ぶ所はない。僕は以前架上の書籍を買ひ入れた年月《ねんげつ》の順に記《しる》し、その書籍の持ち主の一生の変化を暗示《あんじ》する小品を書いて見ようかと思つた。が、西洋人の書いたものに余り似寄《によ》りの話を見た為、とうとうそれなりになつてしまつた。それなりになつてしまつたのは勿論天下の為に幸福である。しかし架上の書籍なるものの鏡のやうに持ち主を映《うつ》すことは兎《と》に角《かく》何か懐しい、さもなければ何か気味の悪い事実であると云はなければならぬ。(この故に売り立てに「さしもの」をするのは他人の作品に筆を入れるの
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