の好い夫婦に返つてゐた。
 と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。しかも漸《やうや》く帰つて来ると、雨外套《あまぐわいたう》も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐《かひがひ》しく夫に着換へさせた。夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取《はかど》つたらう。」――さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。照子。照子。私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆《ほとんど》夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。
 が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。
 そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。彼等は夜毎に
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