ェら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」と何時になく厭味を云つた。信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
 それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」――そんな事も口へ出した。信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺《ろざ》しをしてゐた。すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反《かへ》つて安くつくぢやないか。」と、やはりねちねちした調子で云つた。彼女は猶更《なほさら》口が利けなくなつた。夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」と、囁くやうな声で云つた。夫はそれでも黙つてゐた。暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。それから間もなく泣く声が洩れた。夫は二言三言彼女を叱つた。その後でも彼女の啜泣《すすりな》きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
 翌日彼等は又元の通り、
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