でも御兄様は御優しくはなくつて?」――やがて照子は小さな声で、恐る恐るかう尋ねた。その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫《れんびん》を反撥《はんぱつ》した。彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。
その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。「泣かなくつたつて好いのよ。」――照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。それから女中の耳を憚《はばか》るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。私は照さんさへ幸福なら、何より難有《ありがた》いと思つてゐるの。ほんたうよ。俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」と、低い声で云ひ続けた。云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔
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