を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」とだけしか答へなかつた。信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。さう思ふと愈《いよいよ》彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。
「照さんは幸福ね。」――信子は頤《あご》を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。が、自然と其処へ忍びこんだ、真面目な羨望《せんばう》の調子だけは、どうする事も出来なかつた。照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覚えていらつしやい。」と睨《にら》む真似をした。それからすぐに又「御姉様だつて幸福の癖に。」と、甘えるやうにつけ加へた。その言葉がぴしりと信子を打つた。
 彼女は心もち※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》を上げて、「さう思つて?」と問ひ返した。問ひ返して、すぐに後悔した。照子は一瞬間妙な顔をして、姉と眼を見合せた。その顔にも亦《また》蔽ひ難い後悔の心が動いてゐた。信子は強ひて微笑した。――「さう思はれるだけでも幸福ね。」
 二人の間には沈黙が来た。彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。

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