「どうでしょう? あなたのご鑑裁《かんさい》は」
 先生は歎息《たんそく》を洩らしたぎり、不相変《あいかわらず》画を眺めていました。
「ご遠慮のないところを伺《うかが》いたいのですが、――」
 王氏は無理に微笑しながら、再び先生を促しました。
「これですか? これは――」
 廉州先生はまた口を噤《つぐ》みました。
「これは?」
「これは癡翁《ちおう》第一の名作でしょう。――この雲煙の濃淡をご覧なさい。元気|淋漓《りんり》じゃありませんか。林木なぞの設色《せっしょく》も、まさに天造《てんぞう》とも称すべきものです。あすこに遠峯が一つ見えましょう。全体の布局《ふきょく》があのために、どのくらい活《い》きているかわかりません」
 今まで黙っていた廉州先生は、王氏のほうを顧《かえり》みると、いちいち画の佳所《かしょ》を指さしながら、盛《さかん》に感歎の声を挙《あ》げ始めました。その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。
 私はその間《あいだ》に煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。
「先生、これがあの秋山図ですか?」
 私が小声にこう言うと、煙客翁は頭を振りながら、妙な瞬《まばた》きを一つしました。
「まるで万事が夢のようです。ことによるとあの張家《ちょうけ》の主人は、狐仙《こせん》か何かだったかもしれませんよ」

      *     *     *

「秋山図の話はこれだけです」
 王石谷《おうせきこく》は語り終ると、おもむろに一碗の茶を啜《すす》った。
「なるほど、不思議な話です」
 ※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田《うんなんでん》は、さっきから銅檠《どうけい》の焔《ほのお》を眺めていた。
「その後《ご》王氏も熱心に、いろいろ尋《たず》ねてみたそうですが、やはり癡翁の秋山図と言えば、あれ以外に張氏も知らなかったそうです。ですから昔煙客先生が見られたという秋山図は、今でもどこかに隠れているか、あるいはそれが先生の記憶の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりません。まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれたことが、全体|幻《まぼろし》でもありますまいし、――」
「しかし煙客先生《えんかくせんせい》の心の中《うち》には、その怪しい秋山図が、はっきり残っているのでしょう。それからあなたの心の
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