《こんにち》さえ、しみじみ塵労《じんろう》に疲れた時にはこの永久に帰って来ないヴェネチアの少女を思い出している、ちょうど何年も顔をみない初恋の女人《にょにん》でも思い出すように。

     六 お母さん

 八歳か九歳《くさい》の時か、とにかくどちらかの秋である。陸軍大将の川島《かわしま》は回向院《えこういん》の濡《ぬ》れ仏《ぼとけ》の石壇《いしだん》の前に佇《たたず》みながら、味《み》かたの軍隊を検閲《けんえつ》した。もっとも軍隊とは云うものの、味かたは保吉《やすきち》とも四人しかいない。それも金釦《きんボタン》の制服を着た保吉一人を例外に、あとはことごとく紺飛白《こんがすり》や目《め》くら縞《じま》の筒袖《つつそで》を着ているのである。
 これは勿論国技館の影の境内《けいだい》に落ちる回向院ではない。まだ野分《のわき》の朝などには鼠小僧《ねずみこぞう》の墓のあたりにも銀杏落葉《いちょうおちば》の山の出来る二昔前《ふたむかしまえ》の回向院である。妙に鄙《ひな》びた当時の景色――江戸と云うよりも江戸のはずれの本所《ほんじょ》と云う当時の景色はとうの昔に消え去ってしまった。しかしただ鳩
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