ぶぎょう》のように、何か云い遺《のこ》す事はないかと云う。巡査は故郷に母がある、と云う。署長はまた母の事は心配するな。何かそのほかにも末期《まつご》の際に、心遺りはないかと云う。巡査は何も云う事はない、ピストル強盗を捉えたのは、この上もない満足だと云う。
――その時ひっそりした場内に、三度《さんど》将軍の声が響いた。が、今度は叱声《しっせい》の代りに、深い感激の嘆声だった。
「偉い奴じゃ。それでこそ日本男児《にっぽんだんじ》じゃ。」
穂積中佐はもう一度、そっと将軍へ眼を注いだ。すると日に焼けた将軍の頬《ほお》には、涙の痕《あと》が光っていた。「将軍は善人だ。」――中佐は軽い侮蔑《ぶべつ》の中《うち》に、明るい好意をも感じ出した。
その時幕は悠々と、盛んな喝采《かっさい》を浴びながら、舞台の前に引かれて行った。穂積《ほづみ》中佐はその機会に、ひとり椅子《いす》から立ち上ると、会場の外へ歩み去った。
三十分の後《のち》、中佐は紙巻を啣《くわ》えながら、やはり同参謀の中村《なかむら》少佐と、村はずれの空地《あきち》を歩いていた。
「第×師団の余興は大成功だね。N閣下は非常に喜んでいられた。」
中村少佐はこう云う間《あいだ》も、カイゼル髭《ひげ》の端《はし》をひねっていた。
「第×師団の余興? ああ、あのピストル強盗か?」
「ピストル強盗ばかりじゃない。閣下はあれから余興掛を呼んで、もう一幕臨時にやれと云われた。今度は赤垣源蔵《あかがきげんぞう》だったがね。何と云うのかな、あれは? 徳利《とくり》の別れか?」
穂積中佐は微笑した眼に、広い野原を眺めまわした。もう高粱《こうりょう》の青んだ土には、かすかに陽炎《かげろう》が動いていた。
「それもまた大成功さ。――」
中村少佐は話し続けた。
「閣下は今夜も七時から、第×師団の余興掛に、寄席《よせ》的な事をやらせるそうだぜ。」
「寄席的? 落語《らくご》でもやらせるのかね?」
「何、講談だそうだ。水戸黄門《みとこうもん》諸国めぐり――」
穂積中佐は苦笑《くしょう》した。が、相手は無頓着に、元気のよい口調を続けて行った。
「閣下は水戸黄門が好きなのだそうだ。わしは人臣としては、水戸黄門と加藤清正《かとうきよまさ》とに、最も敬意を払っている。――そんな事を云っていられた。」
穂積中佐は返事をせずに、頭の上の空を見上げた。空には柳の枝の間《あいだ》に、細い雲母雲《きららぐも》が吹かれていた。中佐はほっと息を吐《は》いた。
「春だね、いくら満洲《まんしゅう》でも。」
「内地はもう袷《あわせ》を着ているだろう。」
中村少佐は東京を思った。料理の上手な細君を思った。小学校へ行っている子供を思った。そうして――かすかに憂鬱になった。
「向うに杏《あんず》が咲いている。」
穂積中佐は嬉しそうに、遠い土塀に簇《むらが》った、赤い花の塊りを指した。Ecoute−moi, Madeline………――中佐の心にはいつのまにか、ユウゴオの歌が浮んでいた。
四 父と子と
大正七年十月のある夜、中村《なかむら》少将、――当時の軍参謀中村少佐は、西洋風の応接室に、火のついたハヴァナを啣《くわ》えながら、ぼんやり安楽椅子によりかかっていた。
二十年余りの閑日月《かんじつげつ》は、少将を愛すべき老人にしていた。殊に今夜は和服のせいか、禿《は》げ上《あが》った額のあたりや、肉のたるんだ口のまわりには、一層好人物じみた気色《けしき》があった。少将は椅子《いす》の背《せ》に靠《もた》れたまま、ゆっくり周囲を眺め廻した。それから、――急にため息を洩らした。
室の壁にはどこを見ても、西洋の画《え》の複製らしい、写真版の額《がく》が懸《か》けてあった。そのある物は窓に倚《よ》った、寂しい少女の肖像《しょうぞう》だった。またある物は糸杉の間《あいだ》に、太陽の見える風景だった。それらは皆電燈の光に、この古めかしい応接室へ、何か妙に薄ら寒い、厳粛《げんしゅく》な空気を与えていた。が、その空気はどう云う訣《わけ》か、少将には愉快でないらしかった。
無言《むごん》の何分かが過ぎ去った後《のち》、突然少将は室外に、かすかなノックの音を聞いた。
「おはいり。」
その声と同時に室の中へは、大学の制服を着た青年が一人、背の高い姿を現した。青年は少将の前に立つと、そこにあった椅子に手をやりながら、ぶっきらぼうにこう云った。
「何か御用ですか? お父さん。」
「うん。まあ、そこにおかけ。」
青年は素直《すなお》に腰を下《おろ》した。
「何です?」
少将は返事をするために、青年の胸の金鈕《きんボタン》へ、不審《ふしん》らしい眼をやった。
「今日《きょう》は?」
「今日は河合《かわい》の――お父さんは御存知ない
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