芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雌蜘蛛《めぐも》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二三度|空《くう》を突いた。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]
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 雌蜘蛛《めぐも》は真夏の日の光を浴びたまま、紅い庚申薔薇《こうしんばら》の花の底に、じっと何か考えていた。
 すると空に翅音《はおと》がして、たちまち一匹の蜜蜂が、なぐれるように薔薇の花へ下りた。蜘蛛《くも》は咄嗟《とっさ》に眼を挙げた。ひっそりした真昼の空気の中には、まだ蜂《はち》の翅音の名残《なご》りが、かすかな波動を残していた。
 雌蜘蛛はいつか音もなく、薔薇の花の底から動き出した。蜂はその時もう花粉にまみれながら、蕊《しべ》の下にひそんでいる蜜へ嘴《くちばし》を落していた。
 残酷な沈黙の数秒が過ぎた。
 紅い庚申薔薇《こうしんばら》の花びらは、やがて蜜に酔《よ》った蜂の後へ、おもむろに雌蜘蛛の姿を吐《は》いた。と思うと蜘蛛は猛然と、蜂の首もとへ跳《おど》りかかった。蜂は必死に翅《はね》を鳴らしながら、無二無三に敵を刺《さ》そうとした。花粉はその翅に煽《あお》られて、紛々と日の光に舞い上った。が、蜘蛛はどうしても、噛みついた口を離さなかった。
 争闘は短かった。
 蜂は間もなく翅が利《き》かなくなった。それから脚には痲痺《まひ》が起った。最後に長い嘴《くちばし》が痙攣的《けいれんてき》に二三度|空《くう》を突いた。それが悲劇の終局であった。人間の死と変りない、刻薄な悲劇の終局であった。――一瞬の後《のち》、蜂は紅い庚申薔薇の底に、嘴を伸ばしたまま横《よこた》わっていた。翅も脚もことごとく、香《におい》の高い花粉にまぶされながら、…………
 雌蜘蛛はじっと身じろぎもせず、静《しずか》に蜂の血を啜《すす》り始めた。
 恥を知らない太陽の光は、再び薔薇に返って来た真昼の寂寞《せきばく》を切り開いて、この殺戮《さつりく》と掠奪とに勝ち誇っている蜘蛛の姿を照らした。灰色の繻子《しゅす》に酷似《こくじ》した腹、黒い南京玉《ナンキンだま》を想わせる眼、それから癩《らい》を病んだような、醜い節々《ふしぶし》の硬《かた》まった脚、――蜘蛛はほとんど「悪」それ自身のように、いつまでも死んだ蜂の上に底気味悪くのしかかっていた。
 こう云う残虐《ざんぎゃく》を極めた悲劇は、何度となくその後繰返された。が、紅い庚申薔薇の花は息苦しい光と熱との中に、毎日美しく咲き狂っていた。――
 その内に雌蜘蛛はある真昼、ふと何か思いついたように、薔薇の葉と花との隙間《すきま》をくぐって、一つの枝の先へ這い上った。先には土いきれに凋《しぼ》んだ莟《つぼみ》が、花びらを暑熱に※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ねじ》られながら、かすかに甘い※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を放っていた。雌蜘蛛はそこまで上りつめると、今度はその莟と枝との間に休みない往来を続けだした。と同時にまっ白な、光沢のある無数の糸が、半ばその素枯《すが》れた莟をからんで、だんだん枝の先へまつわり出した。
 しばらくの後《のち》、そこには絹を張ったような円錐形《えんすいけい》の嚢《ふくろ》が一つ、眩《まばゆ》いほどもう白々《しろじろ》と、真夏の日の光を照り返していた。
 蜘蛛は巣が出来上ると、その華奢《きゃしゃ》な嚢の底に、無数の卵を産み落した。それからまた嚢の口へ、厚い糸の敷物を編んで、自分はその上に座を占めながら、さらにもう一天井《ひとてんじょう》、紗《しゃ》のような幕を張り渡した。幕はまるで円頂閣《ドオム》のような、ただ一つの窓を残して、この獰猛《どうもう》な灰色の蜘蛛を真昼の青空から遮断《しゃだん》してしまった。が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩《や》せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音《はおと》も忘れたように、たった一匹|兀々《こつこつ》と、物思いに沈んでいるばかりであった。
 何週間かは経過した。
 その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に眠っていた、新らしい生命が眼を覚ました。それを誰より先に気づいたのは、あの白い広間のまん中に、食さえ断《た》って横《よこた》わっている、今は老い果てた母蜘蛛であった。蜘蛛は糸の敷物の下に、いつの間にか蠢《うごめ》き出した、新らしい生命を感ずると、おもむろに弱った脚を運んで、母と子とを隔てている嚢《ふくろ》の天井を噛《か》み切った。無数の仔蜘蛛《こぐも》は続々と、そこから広間へ溢《あふ》れて来た。と云うよりはむしろ
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