明りの中にしみじみこの折目のついた十円札へ目を落した。鼠色の唐艸《からくさ》や十六|菊《ぎく》の中に朱の印を押した十円札は不思議にも美しい紙幣である。楕円形《だえんけい》の中の肖像も愚鈍《ぐどん》の相《そう》は帯びているにもせよ、ふだん思っていたほど俗悪ではない。裏も、――品《ひん》の好《い》い緑に茶を配した裏は表よりも一層見事である。これほど手垢《てあか》さえつかずにいたらば、このまま額縁《がくぶち》の中へ入れても――いや、手垢《てあか》ばかりではない。何か大きい10[#「10」は縦中横]の上に細かいインクの楽書《らくがき》もある。彼は静かに十円札を取り上げ、口の中にその文字を読み下した。
「ヤスケニシヨウカ」
 保吉は十円札を膝の上へ返した。それから庭先の夕明りの中へ長ながと巻煙草の煙を出した。この一枚の十円札もこう云う楽書の作者にはただ酢《すし》にでもするかどうかを迷わせただけに過ぎなかったのであろう。が、広い世の中にはこの一枚の十円札のために悲劇の起ったこともあるかも知れない。現に彼も昨日《きのう》の午後はこの一枚の十円札の上に彼の魂《たましい》を賭《か》けていたのである。しかしもうそれはどうでも好《い》い。彼はとにかく粟野さんの前に彼自身の威厳を全《まっと》うした。五百部の印税も月給日までの小遣《こづか》いに当てるのには十分である。
「ヤスケニシヨウカ」
 保吉はこう呟《つぶや》いたまま、もう一度しみじみ十円札を眺めた。ちょうど昨日《きのう》踏破《とうは》したアルプスを見返えるナポレオンのように。
[#地から1字上げ](大正十三年八月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月5日公開
2004年3月8日修正
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