即ち借りた金を返さなければならぬ。こう云う手数《てすう》をかけてまでも、無理に威厳を保とうとするのはあるいは滑稽《こっけい》に聞えるかも知れない。しかし彼はどう云う訣《わけ》か、誰よりも特に粟野さんの前に、――あの金縁《きんぶち》の近眼鏡をかけた、幾分《いくぶん》か猫背《ねこぜ》の老紳士の前に彼自身の威厳を保ちたいのである。……
その内に汽車は動き出した。いつか曇天《どんてん》を崩《くず》した雨はかすかに青んだ海の上に何隻も軍艦を煙らせている。保吉は何かほっとしながら、二三人しか乗客のいないのを幸い、長ながとクッションの上に仰向《あおむ》けになった。するとたちまち思い出したのは本郷《ほんごう》のある雑誌社である。この雑誌社は一月《ひとつき》ばかり前に寄稿を依頼する長手紙をよこした。しかしこの雑誌社から発行する雑誌に憎悪《ぞうお》と侮蔑《ぶべつ》とを感じていた彼は未だにその依頼に取り合わずにいる。ああ云う雑誌社に作品を売るのは娘を売笑婦《ばいしょうふ》にするのと選ぶ所はない。けれども今になって見ると、多少の前借《ぜんしゃく》の出来そうなのはわずかにこの雑誌社一軒である。もし多少の前借で
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