、「電燈をつければ好《い》いのに」と云った。「大丈夫だよ。手|探《さぐ》りでも」自分はかまわずに電燈をつけた。細帯一つになった母は無器用《ぶきよう》に金槌《かなづち》を使っていた。その姿は何だか家庭に見るには、余りにみすぼらしい気のするものだった。氷も水に洗われた角には、きらりと電燈の光を反射していた。
 けれども翌朝の多加志の熱は九度よりも少し高いくらいだった。Sさんはまた午前中に見え、ゆうべの洗腸を繰り返した。自分はその手伝いをしながら、きょうは粘液《ねんえき》の少ないようにと思った。しかし便器をぬいてみると、粘液はゆうべよりもずっと多かった。それを見た妻は誰にともなしに、「あんなにあります」と声を挙げた。その声は年の七つも若い女学生になったかと思うくらい、はしたない調子を帯びたものだった。自分は思わずSさんの顔を見た。「疫痢《えきり》ではないでしょうか?」「いや、疫痢じゃありません。疫痢は乳離《ちばな》れをしない内には、――」Sさんは案外落ち着いていた。
 自分はSさんの帰った後《のち》、毎日の仕事にとりかかった。それは「サンデイ毎日」の特別号に載せる小説だった。しかも原稿の締切
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