A何処にもないやうな気がするのだつた。せめてトルストイ夫人でもゐてくれたら、――彼は苛立たしい肚《はら》の中に、何度となくかう思つた。が、この客間《ザラ》へはどうしたものか、未《いまだ》に人のはひつて来るけはひさへも見えなかつた。
五分、十分、――トウルゲネフはとうとうたまり兼ねたやうに、新聞を其処へ抛《はふ》り出すと、蹌踉《さうらう》と椅子から立ち上つた。
その時|客間《ザラ》の戸の外には、突然大勢の話し声や靴の音が聞え出した。それが皆先を争ふやうに、どやどや階段を駈け上つて来る――と思ふと次の瞬間には、乱暴に戸が開かれるが早いか、五六人の男女の子供たちが、口々に何かしやべりながら、一度に部屋の中へ飛びこんで来た。
「お父様、ありましたよ。」
先に立つたイリヤは得意さうに、手に下げた物を振つて見せた。
「私が始《はじめ》見つけたのよ。」
母によく似たタテイアナも、弟に負けない声を挙げた。
「落ちる時にひつかかつたのでせう。白楊《はくやう》の枝にぶら下つてゐました。」
最後にかう説明したのは、一番|年嵩《としかさ》のセルゲイだつた。
トルストイは呆気《あつけ》にとられたやうに、子供たちの顔を見廻してゐた。が、昨日の山鴫が無事に見つかつた事を知ると、忽ち彼の髯深《ひげぶか》い顔には、晴れ晴れした微笑が浮んで来た。
「さうか? 木の枝にひつかかつてゐたのか? それでは犬にも見つからなかつた筈だ。」
彼は椅子を離れながら、子供たちにまじつたトウルゲネフの前へ、逞《たくま》しい右手をさし出した。
「イヴアン・セルゲエヰツチ。これで僕も安心が出来る。僕は嘘をつくやうな人間ではない。この鳥も下に落ちてゐれば、きつとドオラが拾つて来たのだ。」
トウルゲネフは殆《ほとんど》恥しさうに、しつかりトルストイの手を握つた。見つかつたのは山鴫か、それとも「アンナ・カレニナ」の作家か、――「父と子と」の作家の胸には、その判断にも迷ふ位、泣きたいやうな喜ばしさが、何時か一ぱいになつてゐたのだつた。
「僕だつて嘘をつくやうな人間ではない。見給へ。あの通りちやんと仕止めてあるではないか? 何しろ銃が鳴ると同時に、石のやうに落ちて来たのだから、――」
二人の翁は顔を見合せると、云ひ合せたやうに哄笑した。
[#地から2字上げ](大正九年十二月)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
※「モウパスサン」と「モオパスサン」の混在は底本通りとしました。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年3月16日修正
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