v議な程嬉しい気がするのだつた。
 ――彼が寝室へ退く前、主客は一家の男女と共に、茶の卓子《テエブル》を囲みながら、雑談に夜を更《ふ》かしてゐた。トウルゲネフは出来得る限り、快活に笑つたり話したりした。しかしトルストイはその間でも、不相変《あひかはらず》浮かない顔をしたなり、滅多に口も開かなかつた。それが始終トウルゲネフには、面憎《つらにく》くもあれば無気味でもあつた。だから彼は一家の男女に、ふだんよりも愛嬌を振り撒《ま》いては、わざと主人の沈黙を無視するやうに振舞はうとした。
 一家の男女はトウルゲネフが、軽妙な諧謔を弄《ろう》する度に、何れも愉快さうな笑ひ声を立てた。殊に彼が子供たちに、ハムブルグの動物園の象の声だの、巴里のガルソンの身ぶりだのを巧みに真似て見せる時は、一層その笑ひ声が高くなつた。が、一座が陽気になればなる程、トウルゲネフ自身の心もちは、愈《いよいよ》妙にぎこち[#「ぎこち」に傍点]ない息苦しさを感ずるばかりだつた。
「君はこの頃有望な新進作家が出たのを知つてゐるか?」
 話題が仏蘭西《フランス》の文芸に移つた時、とうとう不自然な社交家ぶりに、堪へられなくなつたトウルゲネフは、突然トルストイを顧みながら、わざと気軽さうに声をかけた。
「知らない。何と云ふ作家だ?」
「ド・モウパスサン。――ギイ・ド・モオパスサンと云ふ作家だがね。少くとも外に真似手のない、犀利《さいり》な観察眼を具へた作家だ。――丁度今僕の鞄の中には、La Maison Tellier と云ふ小説集がはひつてゐる。暇があつたら読んで見給へ。」
「ド・モオパスサン?」
 トルストイは疑はしさうに、ちよいと相手の顔を眺めた。が、それぎり小説の事は、読むとも読まないとも答へずにしまつた。トウルゲネフは幼い時分、意地の悪い年上の子供にいぢめられた覚えがある、――丁度そんな情無《なさけな》さが、この時も胸へこみ上げて来た。
「新進作家と云へばこちらへも、珍しい方が一人御見えになりましたよ。」
 彼の当惑を察したトルストイ夫人は、早速風変りな訪問客の話をし始めた。――一月ばかり前の或暮れ方、余り身なりの好くない青年が、是非主人に会ひたいと云ふから、兎に角奥へ通して見ると、初対面の主人に向つて、「取りあへずあなたに頂きたいのは、火酒《ウオツカ》と鯡《にしん》の尻尾《しつぽ》です。」と云ふ。それば
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