、だんだんあせりはじめました。わたくしはあせるのを見るにつけても、今度こそはぜひとも数馬へ扇を挙げたいと思いました。しかしそう思えば思うほど、実は扇を挙げることをためらうようになるのでございまする。二人は今度もしばらくの後《のち》、七八|合《ごう》ばかり打ち合いました。その内に数馬はどう思ったか、多門へ体当《たいあた》りを試みました。どう思ったかと申しますのは日頃《ひごろ》数馬は体当りなどは決して致さぬゆえでございまする。わたくしははっと思いました。またはっと思ったのも当然のことでございました。多門は体《たい》を開いたと思うと、見事にもう一度面を取りました。この最後の勝負ほど、呆気《あっけ》なかったものはございませぬ。わたくしはとうとう三度とも多門へ扇を挙げてしまいました。――わたくしの依怙と申すのはこう云うことでございまする。これは心の秤《はかり》から見れば、云わば一毫《いちごう》を加えたほどの吊合《つりあ》いの狂いかもわかりませぬ。けれども数馬はこの依怙のために大事の試合を仕損《しそん》じました。わたくしは数馬《かずま》の怨《うら》んだのも、今はどうやら不思議のない成行《なりゆき》だったように思って居りまする。」
「じゃがそちの斬り払った時に数馬と申すことを悟《さと》ったのは?」
「それははっきりとはわかりませぬ。しかし今考えますると、わたくしはどこか心の底に数馬に済まぬと申す気もちを持って居ったかとも思いまする。それゆえたちまち狼藉者《ろうぜきもの》を数馬と悟ったかとも思いまする。」
「するとそちは数馬の最後を気の毒に思うて居《い》るのじゃな?」
「さようでございまする。且《かつ》はまた先刻《せんこく》も申した通り、一かどの御用も勤まる侍にむざと命を殞《おと》させたのは、何よりも上《かみ》へ対し奉り、申し訣《わけ》のないことと思って居りまする。」
語り終った三右衛門はいまさらのように頭《かしら》を垂れた。額《ひたい》には師走《しわす》の寒さと云うのに汗さえかすかに光っている。いつか機嫌《きげん》を直した治修《はるなが》は大様《おおよう》に何度も頷《うなず》いて見せた。
「好《よ》い。好い。そちの心底はわかっている。そちのしたことは悪いことかも知れぬ。しかしそれも詮《せん》ないことじゃ。ただこの後《のち》は――」
治修は言葉を終らずに、ちらりと三右衛門《さんえもん》の顔を眺めた。
「そちは一太刀《ひとたち》打った時に、数馬と申すことを知ったのじゃな。ではなぜ打ち果すのを控《ひか》えなかったのじゃ?」
三右衛門は治修にこう問われると、昂然《こうぜん》と浅黒い顔を起した。その目にはまた前にあった、不敵な赫《かがや》きも宿っている。
「それは打ち果さずには置かれませぬ。三右衛門は御家来ではございまする。とは云えまた侍でもございまする。数馬を気の毒に思いましても、狼藉者は気の毒には思いませぬ。」
[#地から1字上げ](大正十二年十二月)
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月10日公開
2004年3月9日修正
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