れませぬ。わたくしは一体多門よりも数馬に望みを嘱《しょく》して居りました。多門の芸はこせついて居りまする。いかに卑怯《ひきょう》なことをしても、ただ勝ちさえ致せば好《よ》いと、勝負ばかり心がける邪道《じゃどう》の芸でございまする。数馬の芸はそのように卑《いや》しいものではございませぬ。どこまでも真《ま》ともに敵を迎える正道《せいどう》の芸でございまする。わたくしはもう二三年致せば、多門はとうてい数馬の上達《じょうたつ》に及ぶまいとさえ思って居りました。………」
「その数馬をなぜ負かしたのじゃ?」
「さあ、そこでございまする。わたくしは確かに多門よりも数馬を勝たしたいと思って居りました。しかしわたくしは行司でございまする。行司はたといいかなる時にも、私曲《しきょく》を抛《なげう》たねばなりませぬ。一たび二人《ふたり》の竹刀《しない》の間《あいだ》へ、扇《おうぎ》を持って立った上は、天道に従わねばなりませぬ。わたくしはこう思いましたゆえ、多門と数馬との立ち合う時にも公平ばかりを心がけました。けれどもただいま申し上げた通り、わたくしは数馬に勝たせたいと思って居《い》るのでございまする。云わばわたくしの心の秤《はかり》は数馬に傾いて居るのでございまする。わたくしはこの心の秤《はかり》を平《たい》らに致したい一心から、自然と多門の皿の上へ錘《おもり》を加えることになりました。しかも後《のち》に考えれば、加え過ぎたのでございまする。多門には寛《かん》に失した代りに、数馬には厳に過ぎたのでございまする。」
 三右衛門はまた言葉を切った。が、治修は黙然《もくねん》と耳を傾けているばかりだった。
「二人は正眼《せいがん》に構えたまま、どちらからも最初にしかけずに居りました。その内に多門は隙《すき》を見たのか、数馬の面《めん》を取ろうと致しました。しかし数馬は気合いをかけながら、鮮《あざや》かにそれを切り返しました。同時にまた多門の小手《こて》を打ちました。わたくしの依怙の致しはじめはこの刹那《せつな》でございまする。わたくしは確かにその一本は数馬の勝だと思いました。が、勝だと思うや否や、いや、竹刀の当りかたは弱かったかも知れぬと思いました。この二度目の考えはわたくしの決断《けつだん》を鈍《にぶ》らせました。わたくしはとうとう数馬の上へ、当然挙げるはずの扇を挙げずにしまったのでございまする。二人はまたしばらくの間《あいだ》、正眼《せいがん》の睨《にら》み合いを続けて居りました。すると今度は数馬《かずま》から多門《たもん》の小手《こて》へしかけました。多門はその竹刀《しない》を払いざまに、数馬の小手へはいりました。この多門の取った小手は数馬の取ったのに比べますと、弱かったようでございまする。少くとも数馬の取ったよりも見事だったとは申されませぬ。しかしわたくしはその途端《とたん》に多門へ扇を挙げてしまいました。つまり最初の一本の勝は多門のものになったのでございまする。わたくしはしまったと思いました。が、そう思う心の裏には、いや、行司《ぎょうじ》は誤っては居らぬ、誤って居《い》ると思うのは数馬に依怙《えこ》のあるためだぞと囁《ささや》くものがあるのでございまする。………」
「それからいかが致した?」
 治修《はるなが》はやや苦《にが》にがしげに、不相変《あいかわらず》ちょっと口を噤《つぐ》んだ三右衛門の話を催促《さいそく》した。
「二人はまたもとのように、竹刀の先をすり合せました。一番長い気合《きあい》のかけ合いはこの時だったかと覚えて居りまする。しかし数馬は相手の竹刀へ竹刀を触《ふ》れたと思うが早いか、いきなり突《つき》を入れました。突はしたたかにはいりました。が、同時に多門の竹刀も数馬の面《めん》を打ったのでございまする。わたくしは相打《あいう》ちを伝えるために、まっ直に扇を挙げて居りました。しかしその時も相打ちではなかったのかもわかりませぬ。あるいは先後《せんご》を定めるのに迷って居ったのかもわかりませぬ。いや、突のはいったのは面に竹刀を受けるよりも先だったかもわかりませぬ。けれどもとにかく相打ちをした二人は四度目の睨み合いへはいりました。すると今度もしかけたのは数馬からでございました。数馬はもう一度突を入れました。が、この時の数馬の竹刀は心もち先が上《あが》って居りました。多門はその竹刀の下を胴《どう》へ打ちこもうと致しました。それからかれこれ十|合《ごう》ばかりは互に※[#「金+凌のつくり」、第4水準2−91−5]《しのぎ》を削《けず》りました。しかし最後に入り身になった多門は数馬の面へ打ちこみました。………」
「その面は?」
「その面は見事にとられました。これだけは誰の目にも疑いのない多門の勝でございまする。数馬はこの面を取られた後《のち》
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