す。陛下は唯今わたくしにお金を恵んで下さいました。わたくしも亦お礼のしるしにその指環を陛下にさし上げます。
商人 誰だ、お前は?
乞食 わたくしでございますか? わたくしの名は誰も知りません。知つてゐるのは唯|空《そら》の上《うへ》のアラアだけでございます。
乞食はかう云つたと思ふと、見る見る香《かう》の煙のやうに、何処《どこ》かへ姿を隠してしまひました。あとには朝日の光のさした町の敷き石があるだけです。ハアヂと名乗つた商人は何時《いつ》までも指環を手にのせた儘 不思議さうにあたりを眺めてゐました。
二
バグダツドの市場《いちば》の噴き井《ゐ》の上には大きい無花果《いちぢく》が葉を拡げてゐます。その噴き井の右ゐるのはハアヂと名乗つた先刻の商人、左にゐるのは水瓶《みづかめ》をさげた、美しい一人《ひとり》の娘です。娘は貧しい身なりをしてゐますが、実際広いアラビアの中にも、この位美しい娘はありますまい。殊に今は日の暮のせゐか、薄明《うすあか》りに浮んだ眼の涼しさは宵の明星《めうじやう》にも負けない位です。
商人 「マルシナアさん。わたしはあなたを妻にしたいのです。あなたは指
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