りません。その内に若い商人が一人、静かに石段を下りて来ました。商人は乞食の姿を見ると、ふとあはれに思つたのでせう、小銭を一枚投げてやりました。
乞食 難有うございます。陛下!
商人は妙な顔をしました。陛下と云ふのはアラビアではカリフ(王)だけにつける尊称ですから。しかし商人は何も云はずに、乞食の前《まへ》
乞食 アラア(神)は陛下をお守り下さいませ
※[#ローマ数字3、1−13−23]
を通りすぎようとしました。すると乞食は追ひかけるやうに、もう一度かう繰返すのです。
乞食 難有うございます。陛下! アラアは陛下をお守り下さいませう。
商人は足を止めました。
商人 お前は勿体ないことを云ふぢやないか? わたしは唯の商人だよ。椰子の実を商ふハアヂと云ふものだよ。陛下などと呼ぶのはやめておくれ。
乞食 いえ 陛下は商人ではございません。陛下はカリフ・アブダル陛下でございます。
商人 わたしがあのアブダル陛下! ははあ、お前は気違ひだな。気違ひならば仕かたはない。が、愚図愚図してゐると、今度はアラアと間違へられさうだ。
商人は苦《にが》い顔をしたなり、さつさと又行きすぎさうにしました
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