の一つは見るに堪へぬ。これ程簡単な物にもこれ程出来の違ひがあるかと思つたら、何事も芸道は恐しい気がした。一刀一拝の心もちが入るのは、仏《ほとけ》を刻む時ばかりでないと云ふ気がした。名人の仕事に思ひ比べれば、我々の書き残した物なぞは、悉《ことごとく》焚焼《ふんせう》しても惜しくはないと云ふ気がした。考へれば考へる程、愈《いよいよ》底の知れなくなるものは天下に芸道唯一つである。(十一月十日)
西洋人
茶碗《ちやわん》に茶を汲《く》んで出すと、茶を飲む前にその茶碗を見る。これは日本人には家常茶飯《かじやうさはん》に見る事だが、西洋人は滅多《めつた》にやらぬらしい。「結構な珈琲《コオヒイ》茶碗でございます」などと云ふ言葉は、西洋小説中にも見えぬやうである。それだけ日本人は芸術的なのかも知れぬ。或はそれだけ日本人の芸術は、細《こまか》い所にも手がとどくのかも知れぬ。リイチ氏なぞは立派《りつぱ》な陶工だが、皿や茶碗の仕事を見ると、裏には心がはひつて居らぬやうだ。これなぞも誰か注意さへすれば、何《なん》でもない事だとは云ふものの、其処《そこ》に争はれぬ西洋人を感ずるやうな心もちがする
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