も無遠慮に筆を揮《ふる》つた結果なるべし。あれ程でなくとも、もう少し役人がやかましくなければ、今より数等深みのある小説が生まれるならん。
 金瓶梅《きんぺいばい》程の小説、西洋に果してありや否や。ピエル・ルイの Aphrodite なども、金瓶梅に比ぶれば、子供の玩具《おもちや》も同じ事なり、尤《もつと》も後者は序文にある通り、楽欲主義《げうよくしゆぎ》と云ふ看板もあれば、一概に比ぶるは不都合《ふつがふ》なるべし。(八月二十三日)

     竹

 後《うしろ》の山の竹藪を遠くから見ると、暗い杉や檜《ひのき》の前に、房々《ふさふさ》した緑が浮き上つて居る。まるで鳥の羽毛《うまう》のやうになり。頭の中で拵《こしら》へた幽篁《いうくわう》とか何《なん》とか云ふ気はしない。支那人は竹が風に吹かるるさまを、竹笑《ちくせう》と名づける由、風の吹いた日も見てゐたが、一向《いつかう》竹笑らしい心もち起らず。又霧の深い夕方出て見たら、皆ぼんやり黒く見える所、平凡な南画じみてつまらなかつた。それより竹藪の中にはひり、竹の皮のむけたのが、裏だけ日の具合《ぐあひ》で光るのを見ると、其処《そこ》らに蛞蝓《なめくぢ》が這《は》つてゐさうな、妙な無気味《ぶきみ》さを感ずるものなり。(八月二十五日青根温泉にて)

     貴族

 貴族或は貴族主義者が思ひ切つてうぬぼれられないのは、彼等も亦《また》われら同様、厠《かはや》に上《のぼ》る故なるべし。さもなければ何処《どこ》の国でも、先祖は神々のやうな顔をするかも知れず。徳川時代の大《だい》諸侯は、参覲交代《さんきんかうたい》の途次《とじ》旅宿《りよしゆく》へとまると、必《かならず》大恭《だいきよう》は砂づめの樽《たる》へ入れて、後《あと》へ残さぬやうに心がけた由。その話を聞かされたら、彼等もこの弱点には気づいてゐたと云ふ気がしたり。これをもつと上品に云へば、ニイチエが「何故《なぜ》人は神だと思はないかと云ふと、云々《うんぬん》」の警句と同じになつてしまふだらう。(八月二十六日)

     井月

 信州《しんしう》伊那《いな》の俳人に井月《せいげつ》と云ふ乞食《こじき》あり、拓落《たくらく》たる道情、良寛《りやうくわん》に劣らず。下島空谷《しもじまくうこく》氏が近来その句を蒐集してゐる。「朝顔に急がぬ膳や残り客《きやく》」「ひそひそと何|料理《れう》るやら榾明《ほたあか》り」「初秋の心づかひや味噌醤油」「大事がる馬の尾づつや秋の風」「落栗《おちぐり》の座をさだむるや窪《くぼ》たまり」(初めて伊那に来て)「鬼灯《ほほづき》の色にゆるむや畑の縄《なは》」等、句も天保《てんぱう》前後の人にしては、思ひの外|好《よ》い。辞世は「何処《どこ》やらで鶴の声する霞かな」と云ふ由。憾《うら》むらくはその伝を詳《つまびらか》にせず。唯犬が嫌ひだつたさうだ。(九月十日)

     百日紅

 自分の知れる限りにては、葉の黄ばみそむる事、桜より早きはなし。槐《ゑんじゆ》これに次ぐ。その代り葉の落ち尽す事早きものは、百日紅《さるすべり》第一なり。桜や槐の梢《こずゑ》にはまだ疎《まばら》に残葉《ざんえふ》があつても、百日紅ばかりは坊主《ばうず》になつてゐる。梧桐《あをぎり》、芭蕉《ばせう》、柳など詩や句に揺落《えうらく》を歌はるるものは、みな思ひの外《ほか》散る事遅し。一体《いつたい》百日紅と云ふ木、春も新緑の色|洽《あまね》き頃にならば、容易に赤い芽を吹かず。長塚節《ながつかたかし》氏の歌に、「春雨《はるさめ》になまめきわたる庭ぬちにおろかなりける梧桐《あをぎり》の木か」とあれど、梧桐の芽を吹くは百日紅よりも早きやうなり。朝寝も好きなら宵寝も好きなる事、百日紅の如きは滅多《めつた》になし。自分は時々この木の横着なるに、人間同様腹を立てる事あり。(九月十三日)

     大作

 亀尾《かめを》君訳エツケルマンのゲエテ語録の中に、少壮の士の大作を成すは労多くして功少きを戒めてやまざる一段あり。蓋《けだし》ゲエテ自身フアウストなどを書かんとして、懲《こ》り懲《こ》りした故なるべし。思へばトルストイも「戦争と平和」や「アンナ・カレニナ」の大成に没頭せしかば、遂には全欧九十年代の芸術がわからずなりしならん。勿論他人の芸術がわからずとも、トルストイのやうな堂々たる自家《じか》の芸術を持つてゐれば、毛頭《まうとう》差支《さしつか》へはなきやうなり。されどわかるわからぬの上より云へば、芸術論を書きたるトルストイは、寧《むし》ろ憐むべき鑑賞眼の所有者たりし事は疑ひなし。まして我々|下根《げこん》の衆生《しゆじやう》は、好《い》い加減な野心に煽動《せんどう》されて、柄《がら》にもない大作にとりかかつたが最期《さいご》、虻蜂《あぶはち》とら
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