ずの歎《たん》を招くは、わかり切つた事かも知れず。とは云ふものの自分なぞは、一旦大作を企つべき機縁が熟したと思つたら、ゲエテの忠告も聞えぬやうに、忽《たちまち》いきり立つてしまひさうな気がする。(九月二十六日)

     水怪

 河童《かつぱ》の考証は柳田国男《やなぎだくにを》氏の山島民譚集《さんたうみんたんしふ》に尽してゐる。御維新前《ごゐしんぜん》は大根河岸《だいこんがし》の川にもやはり河童が住んでゐた。観世新路《くわんぜじんみち》の経師屋《きやうじや》があの川へ障子を洗ひに行つてゐると、突然|後《うしろ》より抱《だ》きつきて、無暗《むやみ》にくすぐり立てるものあり。経師屋閉口して、仰向《あふむ》けに往来《わうらい》へころげたら、河童一匹背中を離れて、川へどぶんと飛びこみし由、幼時母より聞きし事あり。その後《のち》万年橋《まんねんばし》の下の水底《みなそこ》に、大緋鯉《おほひごひ》がゐると云ふ噂《うはさ》ありしが、どうなつたか詳しくは知らず。父の知人に夜釣りに行つたら、吾妻橋《あづまばし》より少し川上《かはかみ》で、大きなすつぽんが船のともへ、乗りかかるのを見たと云ふ人あり。そのすつぽんの首太き事、鉄瓶の如しと話してゐた。東京の川にもこんな水怪《すゐくわい》多し。田舎《ゐなか》へ行つたら猶《なほ》の事、未《いまだ》に河童が芦《あし》の中で、相撲《すまふ》などとつてゐるかも知れない。偶《たまたま》一遊亭《いちいうてい》作る所の河太郎独酌之図《かはたらうどくしやくのづ》を見たから、思ひ出した事を記《しる》しとどめる。(九月三十日)

     器量

 天龍寺《てんりゆうじ》の峨山《がざん》が或雪後の朝、晴れた空を仰ぎながら、「昨日《きのふ》はあんなに雪を降らせた空が、今朝《けさ》はこんなに日がさしてゐる。この意気でなくては人間も、大きな仕事は出来ないな」と云ひし由。今夜それを読んだら、叶《かな》はない気がした。僅《わづか》百枚以内の短篇を書くのに、悲喜|交《こもごも》至つてゐるやうでは、自分ながら気の毒千万なり。この間《あひだ》も湯にはひりながら、湯にはひる事その事は至極簡単なのに、湯にはひる事を書くとなると中々容易でないのが不思議だつた。同時に又不愉快だつた。されど下根《げこん》の衆生《しゆじやう》と生まれたからは、やはり辛抱《しんばう》専一に苦労する外はあるまいと思ふ。(十月三日)

     誤謬

 Ars longa, vita brevis を訳して、芸術は長く人生は短しと云ふは好《よ》い。が、世俗がこの句を使ふのを見ると、人亡べども業《わざ》顕《あらは》ると云ふ意味に使つてゐる。あれは日本人或は日本の文士だけが独り合点《がてん》の使ひ方である。あのヒポクラテエスの第一アフオリズムには、さう云ふ意味ははひつて居らぬ。今の西人《せいじん》がこの句を使ふのも、やはりさう云ふ意味には使つて居らぬ。芸術は長く人生は短しとは、人生は短い故刻苦精励を重ねても、容易に一芸を修める事は出来ぬと云ふ意味である。こんな事を説き明かすのは、中学教師の任かも知れぬ。しかし近頃は我々に教へ顔をする批評家の中にさへ、このはき違へを知らずにゐるものもある。それでは文壇にも気の毒なやうだ。そんな意味に使ひたくば、希臘《ギリシヤ》の哲人の語を借らずとも、孫過庭《そんくわてい》なぞに人亡業顕《ひとほろべどもわざあらはる》云々《うんぬん》の名文句が残つてゐる。序《ついで》ながら書いて置くが、これからの批評家は、「ランダアやレオパルデイのイマジナリイ・コムヴアセエシヨン」などと出たらめの気焔を挙げてゐてはいけぬ。そんな事ではいくら威張つても、衒学《げんがく》の名にさへ価せぬではないか。徒《いたづら》に人に教へたがるよりは、まづ自《みづか》ら教へて来るが好《よ》い。(十月五日)

     不朽

 人命に限りあればとて、命を粗末《そまつ》にして好《よ》いとは限らず。なる可《べ》く長生をしようとするのは、人各々の分別なり。芸術上の作品も何時《いつ》かは亡ぶのに違ひなし。画力《ぐわりよく》は五百年、書力《しよりよく》は八百年とは、王世貞《わうせうてい》既にこれを云ふ。されどなる可く長持ちのする作品を作らうと思ふのは、これ亦《また》我々の随意なり。かう思へば芸術の不朽を信ぜざると、後世に作品を残さんとするとは、格別|矛盾《むじゆん》した考へにもあらざるべし。さらば如何《いか》なる作品が、古くならずにゐるかと云ふに、書や画《ぐわ》の事は知らざれども、文芸上の作品にては簡潔《かんけつ》なる文体が長持ちのする事は事実なり。勿論文体|即《すなはち》作品と云ふ理窟なければ、文体さへ然らばその作品が常に新《あらた》なりとは云ふべからず。されど文体が作品の佳否《かひ》
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング