に影響する限り、絢爛《けんらん》目を奪ふ如き文体が存外《ぞんぐわい》古くなる事は、殆《ほとんど》疑なきが如し。ゴオテイエは今日《こんにち》読むべからず。然れどもメリメエは日に新《あらた》なり。これを我朝の文学に見るも、鴎外《おうぐわい》先生の短篇の如き、それらと同時に発表されし「冷笑」「うづまき」等の諸作に比ぶれば、今猶清新の気に富む事、昨日《きのふ》校正を済まさせたと云ふとも、差支《さしつか》へなき位ならずや。ゾラは嘗《かつて》文体を学ぶに、ヴオルテエルの簡《かん》を宗《むね》とせずして、ルツソオの華《くわ》を宗《むね》とせしを歎き、彼自身の小説が早晩古くなるべきを予言したる事ある由、善く己《おのれ》を知れりと云ふべし。されど前にも書きし通り、文体は作品のすべてにあらず。文体の如何《いかん》を超越したる所に、作品の永続性を求むれば、やはりその深さに帰着するならん。「凡そ事物の能《よ》く久遠《くをん》に垂るる者は、(中略)切実の体《たい》あるを要す」(芥舟学画編《かいしうがくぐわへん》)とは、文芸の上にも確論だと思ふ。(十月六日)

     流俗

 思ふに流俗なるものは、常に前代には有用なりし真理を株守《しゆしゆ》する特色あり。尤《もつと》も一時代|前《ぜん》、二時代前、或は又三時代前と、真理の古きに従つて、いろいろの流俗なきにあらず。さらば一時代の長さ幾何《いくばく》かと云へば、これは時と処とにより、一概には何年と定め難し。まづ日本ならば一時代約十年とも申すべきか。而《しか》して普通流俗が学問芸術に害をなす程度は、その株守する真理の古さと逆比例するものなり。たとへば武士道主義者などが、今日《こんにち》子供の悪戯《いたづら》程も時代の進歩を害せざるは、この法則の好例なるべし。故に現在の文壇にても、人道主義の陣笠《ぢんがさ》連は、自然主義の陣笠連より厄介物《やくかいもの》たるを当然とす。(十月七日)

     木犀《もくせい》

 牛込《うしごめ》の或町を歩いてゐたら、誰の屋敷か知らないが、黒塀《くろべい》の続いてゐる所へ出た。今にも倒れてしまひさうな、ひどく古い黒塀だつた。塀の中には芭蕉《ばせう》や松が、凭《もた》れ合ふやうに一杯茂つてゐた。其処《そこ》を独り歩いてゐると、冷たい木犀《もくせい》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》がし出し
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