何百里と云う道程《みちのり》がある。そう思っている中に、足は見る見る透明になって、自然と雲の影に吸われてしまった。
その足が消えた時である。何小二は心の底から、今までに一度も感じた事のない、不思議な寂しさに襲われた。彼の頭の上には、大きな蒼空《あおぞら》が音もなく蔽《おお》いかかっている。人間はいやでもこの空の下で、そこから落ちて来る風に吹かれながら、みじめな生存を続けて行かなければならない。これは何と云う寂しさであろう。そうしてその寂しさを今まで自分が知らなかったと云う事は、何と云うまた不思議な事であろう。何小二は思わず長いため息をついた。
この時、彼の眼と空との中には、赤い筋のある軍帽をかぶった日本騎兵の一隊が、今までのどれよりも早い速力で、慌しく進んで来た。そうしてまた同じような速力で、慌しくどこかへ消えてしまった。ああ、あの騎兵たちも、寂しさはやはり自分と変らないのであろう。もし彼等が幻でなかったなら、自分は彼等と互に慰め合って、せめて一時《いっとき》でもこの寂しさを忘れたい。しかしそれはもう、今になっては遅かった。
何小二の眼には、とめどもなく涙があふれて来た。その涙に濡れた眼でふり返った時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに満ちていたか、それは今更云う必要はない。彼は誰にでも謝《あやま》りたかった。そうしてまた、誰をでも赦《ゆる》したかった。
「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を償《つぐの》うのだが。」
彼は泣きながら、心の底でこう呟いた。が、限りなく深い、限りなく蒼い空は、まるでそれが耳へはいらないように、一尺ずつあるいは一寸ずつ、徐々として彼の胸の上へ下って来る。その蒼い※[#「瀬」の「束」に代えて「景」、第3水準1−87−32]気《こうき》の中に、点々としてかすかにきらめくものは、大方《おおかた》昼見える星であろう。もう今はあの影のようなものも、二度と眸底《ぼうてい》は横ぎらない。何小二はもう一度歎息して、それから急に唇をふるわせて、最後にだんだん眼をつぶって行った。
下
日清《にっしん》両国の間の和が媾《こう》ぜられてから、一年ばかりたった、ある早春の午前である。北京《ペキン》にある日本公使館内の一室では、公使館附武官の木村陸軍少佐と、折から官命で内地から視察に来た農商務省技師の山川理学士とが、一つテエブルを囲みながら、一碗の珈琲《コオヒイ》と一本の葉巻とに忙しさを忘れて、のどかな雑談に耽《ふけ》っていた。早春とは云いながら、大きなカミンに火が焚《た》いてあるので、室《しつ》の中はどうかすると汗がにじむほど暖い。そこへテエブルの上へのせた鉢植えの紅梅が時々|支那《しな》めいた匂を送って来る。
二人の間の話題は、しばらく西太后《せいたいこう》で持ち切っていたが、やがてそれが一転して日清《にっしん》戦争当時の追憶になると、木村少佐は何を思ったか急に立ち上って、室の隅に置いてあった神州日報の綴《と》じこみを、こっちのテエブルへ持って来た。そうして、その中の一枚を山川技師の眼の前へひろげると、指である箇所をさしながら、読み給えと云う眼つきをした。それがあまり唐突《とうとつ》だったので、技師はちょいと驚いたが、相手の少佐が軍人に似合わない、洒脱《しゃだつ》な人間だと云う事は日頃からよく心得ている。そこで咄嗟《とっさ》に、戦争に関係した奇抜な逸話を予想しながら、その紙面へ眼をやると、果してそこには、日本の新聞口調に直すとこんな記事が、四角な字ばかりで物々しく掲《かか》げてあった。
――街《がい》の剃頭店《ていとうてん》主人、何小二《かしょうじ》なる者は、日清戦争に出征して、屡々《しばしば》勲功を顕《あらわ》したる勇士なれど、凱旋《がいせん》後とかく素行|修《おさま》らず、酒と女とに身を持崩《もちくず》していたが、去る――日《にち》、某酒楼にて飲み仲間の誰彼と口論し、遂に掴《つか》み合いの喧嘩となりたる末、頸部に重傷を負い即刻絶命したり。ことに不思議なるは同人の頸部なる創《きず》にして、こはその際|兇器《きょうき》にて傷《きずつ》けられたるものにあらず、全く日清戦争中戦場にて負いたる創口が、再《ふたたび》、破れたるものにして、実見者の談によれば、格闘中同人が卓子《テエブル》と共に顛倒するや否や、首は俄然|喉《のど》の皮一枚を残して、鮮血と共に床上《しょうじょう》に転《まろ》び落ちたりと云う。但《ただし》、当局はその真相を疑い、目下犯人厳探中の由なれども、諸城《しょじょう》の某甲《ぼうこう》が首の落ちたる事は、載せて聊斎志異《りょうさいしい》にもあれば、該《がい》何小二の如きも、その事なしとは云う可《べか》らざるか。云々。
山川技師は読み了《おわ》ると共に、呆《あき》れた顔をして、「何だい、これは」と云った。すると木村少佐は、ゆっくり葉巻の煙を吐きながら、鷹揚《おうよう》に微笑して、
「面白いだろう。こんな事は支那でなくっては、ありはしない。」
「そうどこにでもあって、たまるものか。」
山川技師もにやにやしながら、長くなった葉巻の灰を灰皿の中へはたき落した。
「しかも更に面白い事は――」
少佐は妙に真面目《まじめ》な顔をして、ちょいと語《ことば》を切った。
「僕はその何小二と云うやつを知っているのだ。」
「知っている? これは驚いた。まさかアッタッシェの癖に、新聞記者と一しょになって、いい加減な嘘を捏造《ねつぞう》するのではあるまいね。」
「誰がそんなくだらない事をするものか。僕はあの頃――屯《とん》の戦《たたかい》で負傷した時に、その何小二と云うやつも、やはり我軍の野戦病院へ収容されていたので、支那語の稽古《けいこ》かたがた二三度話しをした事があるのだ。頸《くび》に創《きず》があると云うのだから、十中八九あの男に違いない。何でも偵察か何かに出た所が我軍の騎兵と衝突して頸へ一つ日本刀をお見舞申されたと云っていた。」
「へえ、妙な縁だね。だがそいつはこの新聞で見ると、無頼漢だと書いてあるではないか。そんなやつは一層《いっそ》その時に死んでしまった方が、どのくらい世間でも助かったか知れないだろう。」
「それがあの頃は、極《ごく》正直な、人の好《い》い人間で、捕虜の中にも、あんな柔順なやつは珍らしいくらいだったのだ。だから軍医官でも何でも、妙にあいつが可愛いかったと見えて、特別によく療治をしてやったらしい。あいつはまた身の上話をしても、なかなか面白い事を云っていた。殊にあいつが頸に重傷を負って、馬から落ちた時の心もちを僕に話して聞かせたのは、今でもちゃんと覚えている。ある川のふちの泥の中にころがりながら、川楊《かわやなぎ》の木の空を見ていると、母親の裙子《くんし》だの、女の素足《すあし》だの、花の咲いた胡麻《ごま》畑だのが、はっきりその空へ見えたと云うのだが。」
木村少佐は葉巻を捨てて、珈琲《コオヒイ》茶碗を唇へあてながら、テエブルの上の紅梅へ眼をやって、独り語《ごと》のように語《ことば》を次いだ。
「あいつはそれを見た時に、しみじみ今までの自分の生活が浅ましくなって来たと云っていたっけ。」
「それが戦争がすむと、すぐに無頼漢になったのか。だから人間はあてにならない。」
山川技師は椅子の背へ頭をつけながら、足をのばして、皮肉に葉巻の煙を天井へ吐いた。
「あてにならないと云うのは、あいつが猫をかぶっていたと云う意味か。」
「そうさ。」
「いや、僕はそう思わない。少くともあの時は、あいつも真面目にそう感じていたのだろうと思う。恐らくは今度もまた、首が落ちると同時に(新聞の語《ことば》をそのまま使えば)やはりそう感じたろう。僕はそれをこんな風に想像する。あいつは喧嘩をしている中《うち》に、酔っていたから、訳なく卓子《テエブル》と一しょに抛《ほう》り出された。そうしてその拍子に、創口が開《あ》いて、長い辮髪《べんぱつ》をぶらさげた首が、ごろりと床の上へころげ落ちた。あいつが前に見た母親の裙子《くんし》とか、女の素足とか、あるいはまた花のさいている胡麻畑とか云うものは、やはりそれと同時にあいつの眼の前を、彷彿として往来した事だろう。あるいは屋根があるにも関《かかわ》らず、あいつは深い蒼空《あおぞら》を、遥か向うに望んだかも知れない。あいつはその時、しみじみまた今までの自分の生活が浅ましくなった。が、今度はもう間に合わない。前には正気を失っている所を、日本の看護卒が見つけて介抱してやった。今は喧嘩の相手が、そこをつけこんで打《ぶ》ったり蹴ったりする。そこであいつは後悔した上にも後悔しながら息をひきとってしまったのだ。」
山川技師は肩をゆすって笑った。
「君は立派な空想家だ。だが、それならどうしてあいつは、一度そう云う目に遇《あ》いながら、無頼漢なんぞになったのだろう。」
「それは君の云うのとちがった意味で、人間はあてにならないからだ。」
木村少佐は新しい葉巻に火をつけてから、ほとんど、得意に近いほど晴々《はればれ》した調子で、微笑しながらこう云った。
「我々は我々自身のあてにならない事を、痛切に知って置く必要がある。実際それを知っているもののみが、幾分でもあてになるのだ。そうしないと、何小二《かしょうじ》の首が落ちたように、我々の人格も、いつどんな時首が落ちるかわからない。――すべて支那の新聞と云うものは、こんな風に読まなくてはいけないのだ。」
[#地から1字上げ](大正六年十二月)
底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月23日公開
2004年3月8日修正
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