首が落ちた話
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)何小二《かしょうじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|鶉《うずら》の群《むれ》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]
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        上

 何小二《かしょうじ》は軍刀を抛《ほう》り出すと、夢中で馬の頸《くび》にしがみついた。確かに頸を斬られたと思う――いや、これはしがみついた後で、そう思ったのかも知れない。ただ、何か頸へずん[#「ずん」に傍点]と音を立てて、はいったと思う――それと同時に、しがみついたのである。すると馬も創《きず》を受けたのであろう。何小二が鞍の前輪へつっぷすが早いか、一声高く嘶《いなな》いて、鼻づらを急に空へ向けると、忽《たちま》ち敵味方のごったになった中をつきぬけて、満目の高粱畑《こうりょうばたけ》をまっしぐらに走り出した。二三発、銃声が後《うしろ》から響いたように思われるが、それも彼の耳には、夢のようにしか聞えない。
 人の身の丈《たけ》よりも高い高粱は、無二無三《むにむさん》に駈けてゆく馬に踏みしだかれて、波のように起伏する。それが右からも左からも、あるいは彼の辮髪《べんぱつ》を掃《はら》ったり、あるいは彼の軍服を叩いたり、あるいはまた彼の頸から流れている、どす黒い血を拭ったりした。が、彼の頭には、それを一々意識するだけの余裕がない。ただ、斬られたと云う簡単な事実だけが、苦しいほどはっきり、脳味噌に焦《こ》げついている。斬られた。斬られた。――こう心の中に繰返しながら、彼は全く機械的に、汗みずくになった馬の腹を何度も靴《くつ》の踵《かかと》で蹴《け》った。

       ―――――――――――――――――――――――――

 十分ほど前、何小二《かしょうじ》は仲間の騎兵と一しょに、味方の陣地から川一つ隔てた、小さな村の方へ偵察《ていさつ》に行く途中、黄いろくなりかけた高粱《こうりょう》の畑の中で、突然一隊の日本騎兵と遭遇した。それが余り突然すぎたので、敵も味方も小銃を発射する暇《いとま》がない。少くとも味方は、赤い筋のはいった軍帽と、やはり赤い肋骨《ろっこつ》のある軍服とが見えると同時に、誰からともなく一度に軍刀をひき抜いて、咄嗟《とっさ》に馬の頭《かしら》をその方へ立て直した。勿論その時は、万一自分が殺されるかも知れないなどと云うことは、誰の頭にもはいって来ない。そこにあるのは、ただ敵である。あるいは敵を殺す事である。だから彼等は馬の頭を立て直すと、いずれも犬のように歯をむき出しながら、猛然として日本騎兵のいる方へ殺到した。すると敵も彼等と同じ衝動に支配されていたのであろう。一瞬の後には、やはり歯をむき出した、彼等の顔を鏡に映したような顔が、幾つも彼等の左右に出没し始めた。そうしてその顔と共に、何本かの軍刀が、忙《いそが》しく彼等の周囲に、風を切る音を起し始めた。
 それから後《のち》の事は、どうも時間の観念が明瞭でない。丈《たけ》の高い高粱が、まるで暴風雨《あらし》にでも遇ったようにゆすぶれたり、そのゆすぶれている穂の先に、銅《あかがね》のような太陽が懸っていたりした事は、不思議なくらいはっきり覚えている。が、その騒ぎがどのくらいつづいたか、その間にどんな事件がどんな順序で起ったか、こう云う点になると、ほとんど、何一つはっきりしない。とにかくその間中何小二は自分にまるで意味を成さない事を、気違いのような大声で喚《わめ》きながら、無暗に軍刀をふりまわしていた。一度その軍刀が赤くなった事もあるように思うがどうも手答えはしなかったらしい。その中に、ふりまわしている軍刀の※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《つか》が、だんだん脂汗《あぶらあせ》でぬめって来る。そうしてそれにつれて、妙に口の中が渇いて来る。そこへほとんど、眼球がとび出しそうに眼を見開いた、血相の変っている日本騎兵の顔が、大きな口を開《あ》きながら、突然彼の馬の前に跳《おど》り出した。赤い筋のある軍帽が、半ば裂けた間からは、いが栗坊主の頭が覗いている。何小二はそれを見ると、いきなり軍刀をふり上げて、力一ぱいその帽子の上へ斬り下した。が、こっちの軍刀に触れたのは、相手の軍帽でもなければ、その下にある頭でもない。それを下から刎《は》ね上げた、向うの軍刀の鋼《はがね》である。その音が煮えくり返るような周囲の騒ぎの中に、恐しくかん[#「かん」に傍点]と冴《さ》え渡って、磨いた鉄の冷かな臭《におい》を、一度に鋭く鼻の孔の中へ送りこんだ。そうしてそれと共に、眩《まばゆ》く日を反射した、幅の広い向うの軍刀が、頭の真上へ来て、くるりと大きな輪を描いた。――と思った時、何小二の頸のつけ根へは、何とも云えない、つめたい物が、ずんと音をたてて、はいったのである。

       ―――――――――――――――――――――――――

 馬は、創《きず》の痛みで唸《うな》っている何小二《かしょうじ》を乗せたまま、高粱《こうりょう》畑の中を無二無三《むにむさん》に駈けて行った。どこまで駈けても、高粱は尽きる容子《ようす》もなく茂っている。人馬の声や軍刀の斬り合う音は、もういつの間にか消えてしまった。日の光も秋は、遼東《りょうとう》と日本と変りがない。
 繰返して云うが、何小二は馬の背に揺られながら、創の痛みで唸っていた。が、彼の食いしばった歯の間を洩れる声には、ただ唸り声と云う以上に、もう少し複雑な意味がある。と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、呻吟《しんぎん》していたのではない。精神的な苦痛のために――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、泣き喚《わめ》いていたのである。
 彼は永久にこの世界に別れるのが、たまらなく悲しかった。それから彼をこの世界と別れさせるようにした、あらゆる人間や事件が恨めしかった。それからどうしてもこの世界と別れなければならない彼自身が腹立しかった。それから――こんな種々雑多の感情は、それからそれへと縁を引いて際限なく彼を虐《さいな》みに来る。だから彼はこれらの感情が往来するのに従って、「死ぬ。死ぬ。」と叫んで見たり、父や母の名を呼んで見たり、あるいはまた日本騎兵の悪口《あっこう》を云って見たりした。が、不幸にしてそれが一度彼の口を出ると、何の意味も持っていない、嗄《しゃが》れた唸《うな》り声に変ってしまう。それほどもう彼は弱ってでもいたのであろう。
「私ほどの不幸な人間はない。この若さにこんな所まで戦に来て、しかも犬のように訳もなく殺されてしまう。それには第一に、私を斬った日本人が憎い。その次には私たちを偵察に出した、私の隊の上官が憎い。最後にこんな戦争を始めた、日本国と清国《しんこく》とが憎い。いや憎いものはまだほかにもある。私を兵卒にした事情に幾分でも関係のある人間が、皆私には敵と変りがない。私はそう云ういろいろの人間のおかげで、したい事の沢山あるこの世の中と、今の今別れてしまう。ああ、そう云う人間や事情のするなりにさせて置いた私は、何と云う莫迦《ばか》だろう。」
 何小二はその唸り声の中にこんな意味を含めながら、馬の平首《ひらくび》にかじりついて、どこまでも高粱の中を走って行った。その勢に驚いて、時々|鶉《うずら》の群《むれ》が慌しくそこここから飛び立ったが、馬は元よりそんな事には頓着《とんじゃく》しない。背中に乗せている主人が、時々ずり落ちそうになるのにもかまわずに、泡を吐き吐き駈けつづけている。
 だからもし運命が許したら、何小二はこの不断の呻吟《しんぎん》の中に、自分の不幸を上天に訴えながら、あの銅《あかがね》のような太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通したのに相違ない。が、この平地が次第に緩《ゆる》い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、幅の狭い濁り川が、行方《ゆくて》に明《あかる》く開けた時、運命は二三本の川楊《かわやなぎ》の木になって、もう落ちかかった葉を低い梢《こずえ》に集めながら、厳《いかめ》しく川のふちに立っていた。そうして、何小二の馬がその間を通りぬけるが早いか、いきなりその茂った枝の中に、彼の体を抱き上げて、水際の柔らかな泥の上へまっさかさまに抛《ほう》り出した。
 その途端に何小二は、どうか云う聯想の関係で、空に燃えている鮮やかな黄いろい炎が眼に見えた。子供の時に彼の家の廚房《ちゅうぼう》で、大きな竈《かまど》の下に燃えているのを見た、鮮やかな黄いろい炎である。「ああ火が燃えている」と思う――その次の瞬間には彼はもういつか正気《しょうき》を失っていた。………

        中

 馬の上から転げ落ちた何小二《かしょうじ》は、全然正気を失ったのであろうか。成程《なるほど》創《きず》の疼《いた》みは、いつかほとんど、しなくなった。が、彼は土と血とにまみれて、人気のない川のふちに横《よこた》わりながら、川楊《かわやなぎ》の葉が撫でている、高い蒼空《あおぞら》を見上げた覚えがある。その空は、彼が今まで見たどの空よりも、奥深く蒼く見えた。丁度大きな藍《あい》の瓶《かめ》をさかさまにして、それを下から覗いたような心もちである。しかもその瓶の底には、泡の集ったような雲がどこからか生れて来て、またどこかへ※[#「條」の「木」に代えて「羽」の旧字体、第3水準1−90−31]然《ゆうぜん》と消えてしまう。これが丁度絶えず動いている川楊の葉に、かき消されて行くようにも思われる。
 では、何小二は全然正気を失わずにいたのであろうか。しかし彼の眼と蒼空との間には実際そこになかった色々な物が、影のように幾つとなく去来した。第一に現れたのは、彼の母親のうすよごれた裙子《くんし》である。子供の時の彼は、嬉しい時でも、悲しい時でも、何度この裙子にすがったかわからない。が、これは思わず彼が手を伸ばして、捉《とら》えようとする間もなく、眼界から消えてしまった。消える時に見ると、裙子は紗《しゃ》のように薄くなって、その向うにある雲の塊《かたまり》を、雲母《きらら》のように透かせている。
 その後《あと》からは、彼の生まれた家の後《うしろ》にある、だだっ広い胡麻畑《ごまばたけ》が、辷《すべ》るように流れて来た。さびしい花が日の暮を待つように咲いている、真夏の胡麻畑である。何小二はその胡麻の中に立っている、自分や兄弟たちの姿を探して見た。が、そこに人らしいものの影は一つもない。ただ色の薄い花と葉とが、ひっそりと一つになって、薄い日の光に浴している。これは空間を斜《ななめ》に横ぎって、吊《つ》り上げられたようにすっと消えた。
 するとその次には妙なものが空をのたくって来た。よく見ると、燈夜《とうや》に街をかついで歩く、あの大きな竜燈《りゅうとう》である。長さはおよそ四五間もあろうか。竹で造った骨組みの上へ紙を張って、それに青と赤との画の具で、華やかな彩色が施してある。形は画で見る竜と、少しも変りがない。それが昼間だのに、中へ蝋燭《ろうそく》らしい火をともして、彷彿と蒼空《あおぞら》へ現れた。その上不思議な事には、その竜燈が、どうも生きているような心もちがする、現に長い鬚《ひげ》などは、ひとりでに左右へ動くらしい。――と思う中にそれもだんだん視野の外へ泳いで行って、そこから急に消えてしまった。
 それが見えなくなると、今度は華奢《きゃしゃ》な女の足が突然空へ現れた。纏足《てんそく》をした足だから、細さは漸《ようや》く三寸あまりしかない。しなやかにまがった指の先には、うす白い爪が柔らかく肉の色を隔てている。小二《しょうじ》の心にはその足を見た時の記憶が夢の中で食われた蚤のように、ぼんやり遠い悲しさを運んで来た。もう一度あの足にさわる事が出来たなら、――しかしそれは勿論もう出来ないのに相違ない。こことあの足を見た所との間は、
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