濡れた眼でふり返った時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに満ちていたか、それは今更云う必要はない。彼は誰にでも謝《あやま》りたかった。そうしてまた、誰をでも赦《ゆる》したかった。
「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を償《つぐの》うのだが。」
彼は泣きながら、心の底でこう呟いた。が、限りなく深い、限りなく蒼い空は、まるでそれが耳へはいらないように、一尺ずつあるいは一寸ずつ、徐々として彼の胸の上へ下って来る。その蒼い※[#「瀬」の「束」に代えて「景」、第3水準1−87−32]気《こうき》の中に、点々としてかすかにきらめくものは、大方《おおかた》昼見える星であろう。もう今はあの影のようなものも、二度と眸底《ぼうてい》は横ぎらない。何小二はもう一度歎息して、それから急に唇をふるわせて、最後にだんだん眼をつぶって行った。
下
日清《にっしん》両国の間の和が媾《こう》ぜられてから、一年ばかりたった、ある早春の午前である。北京《ペキン》にある日本公使館内の一室では、公使館附武官の木村陸軍少佐と、折から官命で内地から視察に来た農商務省技師の山川理学士と
前へ
次へ
全19ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング