楊の葉に、かき消されて行くようにも思われる。
 では、何小二は全然正気を失わずにいたのであろうか。しかし彼の眼と蒼空との間には実際そこになかった色々な物が、影のように幾つとなく去来した。第一に現れたのは、彼の母親のうすよごれた裙子《くんし》である。子供の時の彼は、嬉しい時でも、悲しい時でも、何度この裙子にすがったかわからない。が、これは思わず彼が手を伸ばして、捉《とら》えようとする間もなく、眼界から消えてしまった。消える時に見ると、裙子は紗《しゃ》のように薄くなって、その向うにある雲の塊《かたまり》を、雲母《きらら》のように透かせている。
 その後《あと》からは、彼の生まれた家の後《うしろ》にある、だだっ広い胡麻畑《ごまばたけ》が、辷《すべ》るように流れて来た。さびしい花が日の暮を待つように咲いている、真夏の胡麻畑である。何小二はその胡麻の中に立っている、自分や兄弟たちの姿を探して見た。が、そこに人らしいものの影は一つもない。ただ色の薄い花と葉とが、ひっそりと一つになって、薄い日の光に浴している。これは空間を斜《ななめ》に横ぎって、吊《つ》り上げられたようにすっと消えた。
 するとその次には妙なものが空をのたくって来た。よく見ると、燈夜《とうや》に街をかついで歩く、あの大きな竜燈《りゅうとう》である。長さはおよそ四五間もあろうか。竹で造った骨組みの上へ紙を張って、それに青と赤との画の具で、華やかな彩色が施してある。形は画で見る竜と、少しも変りがない。それが昼間だのに、中へ蝋燭《ろうそく》らしい火をともして、彷彿と蒼空《あおぞら》へ現れた。その上不思議な事には、その竜燈が、どうも生きているような心もちがする、現に長い鬚《ひげ》などは、ひとりでに左右へ動くらしい。――と思う中にそれもだんだん視野の外へ泳いで行って、そこから急に消えてしまった。
 それが見えなくなると、今度は華奢《きゃしゃ》な女の足が突然空へ現れた。纏足《てんそく》をした足だから、細さは漸《ようや》く三寸あまりしかない。しなやかにまがった指の先には、うす白い爪が柔らかく肉の色を隔てている。小二《しょうじ》の心にはその足を見た時の記憶が夢の中で食われた蚤のように、ぼんやり遠い悲しさを運んで来た。もう一度あの足にさわる事が出来たなら、――しかしそれは勿論もう出来ないのに相違ない。こことあの足を見た所との間は、何百里と云う道程《みちのり》がある。そう思っている中に、足は見る見る透明になって、自然と雲の影に吸われてしまった。
 その足が消えた時である。何小二は心の底から、今までに一度も感じた事のない、不思議な寂しさに襲われた。彼の頭の上には、大きな蒼空《あおぞら》が音もなく蔽《おお》いかかっている。人間はいやでもこの空の下で、そこから落ちて来る風に吹かれながら、みじめな生存を続けて行かなければならない。これは何と云う寂しさであろう。そうしてその寂しさを今まで自分が知らなかったと云う事は、何と云うまた不思議な事であろう。何小二は思わず長いため息をついた。
 この時、彼の眼と空との中には、赤い筋のある軍帽をかぶった日本騎兵の一隊が、今までのどれよりも早い速力で、慌しく進んで来た。そうしてまた同じような速力で、慌しくどこかへ消えてしまった。ああ、あの騎兵たちも、寂しさはやはり自分と変らないのであろう。もし彼等が幻でなかったなら、自分は彼等と互に慰め合って、せめて一時《いっとき》でもこの寂しさを忘れたい。しかしそれはもう、今になっては遅かった。
 何小二の眼には、とめどもなく涙があふれて来た。その涙に濡れた眼でふり返った時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに満ちていたか、それは今更云う必要はない。彼は誰にでも謝《あやま》りたかった。そうしてまた、誰をでも赦《ゆる》したかった。
「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を償《つぐの》うのだが。」
 彼は泣きながら、心の底でこう呟いた。が、限りなく深い、限りなく蒼い空は、まるでそれが耳へはいらないように、一尺ずつあるいは一寸ずつ、徐々として彼の胸の上へ下って来る。その蒼い※[#「瀬」の「束」に代えて「景」、第3水準1−87−32]気《こうき》の中に、点々としてかすかにきらめくものは、大方《おおかた》昼見える星であろう。もう今はあの影のようなものも、二度と眸底《ぼうてい》は横ぎらない。何小二はもう一度歎息して、それから急に唇をふるわせて、最後にだんだん眼をつぶって行った。

        下

 日清《にっしん》両国の間の和が媾《こう》ぜられてから、一年ばかりたった、ある早春の午前である。北京《ペキン》にある日本公使館内の一室では、公使館附武官の木村陸軍少佐と、折から官命で内地から視察に来た農商務省技師の山川理学士と
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