した、幅の広い向うの軍刀が、頭の真上へ来て、くるりと大きな輪を描いた。――と思った時、何小二の頸のつけ根へは、何とも云えない、つめたい物が、ずんと音をたてて、はいったのである。
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馬は、創《きず》の痛みで唸《うな》っている何小二《かしょうじ》を乗せたまま、高粱《こうりょう》畑の中を無二無三《むにむさん》に駈けて行った。どこまで駈けても、高粱は尽きる容子《ようす》もなく茂っている。人馬の声や軍刀の斬り合う音は、もういつの間にか消えてしまった。日の光も秋は、遼東《りょうとう》と日本と変りがない。
繰返して云うが、何小二は馬の背に揺られながら、創の痛みで唸っていた。が、彼の食いしばった歯の間を洩れる声には、ただ唸り声と云う以上に、もう少し複雑な意味がある。と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、呻吟《しんぎん》していたのではない。精神的な苦痛のために――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、泣き喚《わめ》いていたのである。
彼は永久にこの世界に別れるのが、たまらなく悲しかった。それから彼をこの世界と別れさせるようにした、あらゆる人間や事件が恨めしかった。それからどうしてもこの世界と別れなければならない彼自身が腹立しかった。それから――こんな種々雑多の感情は、それからそれへと縁を引いて際限なく彼を虐《さいな》みに来る。だから彼はこれらの感情が往来するのに従って、「死ぬ。死ぬ。」と叫んで見たり、父や母の名を呼んで見たり、あるいはまた日本騎兵の悪口《あっこう》を云って見たりした。が、不幸にしてそれが一度彼の口を出ると、何の意味も持っていない、嗄《しゃが》れた唸《うな》り声に変ってしまう。それほどもう彼は弱ってでもいたのであろう。
「私ほどの不幸な人間はない。この若さにこんな所まで戦に来て、しかも犬のように訳もなく殺されてしまう。それには第一に、私を斬った日本人が憎い。その次には私たちを偵察に出した、私の隊の上官が憎い。最後にこんな戦争を始めた、日本国と清国《しんこく》とが憎い。いや憎いものはまだほかにもある。私を兵卒にした事情に幾分でも関係のある人間が、皆私には敵と変りがない。私はそう云ういろいろの人間のおかげで、したい事の沢山あるこの世の中と、今の今別れてしまう。ああ、そう云う人間や事情のするなりにさせて置いた私は、何と云う莫迦《ばか》だろう。」
何小二はその唸り声の中にこんな意味を含めながら、馬の平首《ひらくび》にかじりついて、どこまでも高粱の中を走って行った。その勢に驚いて、時々|鶉《うずら》の群《むれ》が慌しくそこここから飛び立ったが、馬は元よりそんな事には頓着《とんじゃく》しない。背中に乗せている主人が、時々ずり落ちそうになるのにもかまわずに、泡を吐き吐き駈けつづけている。
だからもし運命が許したら、何小二はこの不断の呻吟《しんぎん》の中に、自分の不幸を上天に訴えながら、あの銅《あかがね》のような太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通したのに相違ない。が、この平地が次第に緩《ゆる》い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、幅の狭い濁り川が、行方《ゆくて》に明《あかる》く開けた時、運命は二三本の川楊《かわやなぎ》の木になって、もう落ちかかった葉を低い梢《こずえ》に集めながら、厳《いかめ》しく川のふちに立っていた。そうして、何小二の馬がその間を通りぬけるが早いか、いきなりその茂った枝の中に、彼の体を抱き上げて、水際の柔らかな泥の上へまっさかさまに抛《ほう》り出した。
その途端に何小二は、どうか云う聯想の関係で、空に燃えている鮮やかな黄いろい炎が眼に見えた。子供の時に彼の家の廚房《ちゅうぼう》で、大きな竈《かまど》の下に燃えているのを見た、鮮やかな黄いろい炎である。「ああ火が燃えている」と思う――その次の瞬間には彼はもういつか正気《しょうき》を失っていた。………
中
馬の上から転げ落ちた何小二《かしょうじ》は、全然正気を失ったのであろうか。成程《なるほど》創《きず》の疼《いた》みは、いつかほとんど、しなくなった。が、彼は土と血とにまみれて、人気のない川のふちに横《よこた》わりながら、川楊《かわやなぎ》の葉が撫でている、高い蒼空《あおぞら》を見上げた覚えがある。その空は、彼が今まで見たどの空よりも、奥深く蒼く見えた。丁度大きな藍《あい》の瓶《かめ》をさかさまにして、それを下から覗いたような心もちである。しかもその瓶の底には、泡の集ったような雲がどこからか生れて来て、またどこかへ※[#「條」の「木」に代えて「羽」の旧字体、第3水準1−90−31]然《ゆうぜん》と消えてしまう。これが丁度絶えず動いている川
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