酒虫
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)燕《つばめ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)悪い事|夥《おびただ》しい。

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(例)※[#「白/十」、第3水準1−88−64]布衫《さうふさん》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わざ/\炎天の
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       一

 近年にない暑さである。どこを見ても、泥で固めた家々の屋根瓦が、鉛のやうに鈍く日の光を反射して、その下に懸けてある燕《つばめ》の巣さへ、この塩梅《あんばい》では中にゐる雛や卵を、そのまゝ蒸殺《むしころ》してしまふかと思はれる。まして、畑と云ふ畑は、麻でも黍でも、皆、土いきれにぐつたりと頭をさげて、何一つ、青いなりに、萎《しほ》れてゐないものはない。その畑の上に見える空も、この頃の温気《うんき》に中《あ》てられたせいか、地上に近い大気は、晴れながら、どんよりと濁つて、その所々に、霰《あられ》を炮烙《ほうろく》で煎つたやうな、形ばかりの雲の峰が、つぶつぶ[#「つぶつぶ」に傍点]と浮かんでゐる。――「酒虫《しゆちう》」の話は、この陽気に、わざ/\炎天の打麦場《だばくぢやう》へ出てゐる、三人の男で始まるのである。
 不思議な事に、その中の一人は、素裸で、仰向けに地面《ぢびた》へ寝ころんでゐる。おまけに、どう云ふ訳だか、細引《ほそびき》で、手も足もぐる/\巻にされてゐる。が格別当人は、それを苦に病んでゐる容子もない。背《せい》の低い、血色の好い、どことなく鈍重と云ふ感じを起させる、豚のやうに肥つた男である。それから手ごろな素焼《すやき》の瓶が一つ、この男の枕もとに置いてあるが、これも中に何がはいつてゐるのだか、わからない。
 もう一人は、黄色い法衣《ころも》を着て、耳に小さな青銅《からかね》の環をさげた、一見、象貌《しやうばう》の奇古《きこ》な沙門《しやもん》である。皮膚の色が並はづれて黒い上に、髪や鬚《ひげ》の縮れてゐる所を見ると、どうも葱嶺《さうれい》の西からでも来た人間らしい。これはさつきから根気よく、朱柄《しゆえ》の麈尾《しゆび》をふりふり、裸の男にたからうとする虻《あぶ》や蠅を追つてゐたが、流石《さすが》に少しくたびれたと見えて、今では、例の素焼《すやき》の瓶の側へ来て、七面鳥のやうな恰好をしながら、勿体《もつたい》らしくしやがんでゐる。
 あとの一人は、この二人からずつと離れて、打麦場の隅にある草房の軒下に立つてゐる。この男は、頤《あご》の先に、鼠の尻尾のやうな髯《ひげ》を、申訳だけに生やして、踵が隠れる程長い※[#「白/十」、第3水準1−88−64]布衫《さうふさん》に、結目をだらしなく垂らした茶褐帯《さかつたい》と云ふ拵へである。白い鳥の羽で製《つく》つた団扇を、時々大事さうに使つてゐる容子では、多分、儒者か何かにちがひない。
 この三人が三人とも、云ひ合せたやうに、口を噤《つぐ》んでゐる。その上、碌に身動きさへもしない、何か、これから起らうとする事に、非常な興味でも持つてゐて、その為に、皆、息をひそめてゐるのではないかと思はれる。
 日は正に、亭午であらう。犬も午睡《ごすゐ》をしてゐるせいか、吠える声一つ聞えない。打麦場を囲んでゐる麻や黍も、青い葉を日に光らせて、ひつそりかんと静まつてゐる。それから、その末に見える空も、一面に、熱くるしく、炎靄をたゞよはせて、雲の峰さへもこの旱《ひでり》に、肩息をついてゐるのかと、疑はれる。見渡した所、息が通つてゐるらしいのは、この三人の男の外にない。さうして、その三人が又、関帝廟に安置してある、泥塑の像のやうに沈黙を守つてゐる。……
 勿論、日本の話ではない。――支那の長山《ちやうざん》と云ふ所にある劉《りう》氏の打麦場で、或年の夏、起つた出来事である。

       二

 裸で、炎天に寝ころんでゐるのは、この打麦場の主人で、姓は劉、名は大成と云ふ、長山では、屈指の素封家《そほうか》の一人である。この男の道楽は、酒を飲む一方で、朝から、殆、盃《さかづき》を離したと云ふ事がない。それも、「独酌する毎に輒《すなはち》、一甕《いちをう》を尽す」と云ふのだから、人並をはづれた酒量である。尤も前にも云つたやうに、「負郭《ふくわく》の田三百畝、半は黍《きび》を種《う》う」と云ふので、飲《いん》の為に家産が累《わづら》はされるやうな惧《おそれ》は、万々ない。
 それが、何故、裸で、炎天に寝ころんでゐるかと云ふと、それには、かう云ふ因縁がある。――その日、劉が、同じ飲仲間の孫先生《そんせんせい》と一しよに(これが、白羽扇《はくうせん》を持つてゐた儒者である。)風通しのいゝ室《へや》で、竹婦人《ちくふじん》に靠《もた》れながら、棋局を闘《たゝか》はせてゐると、召使ひの※[#「Y」に似た字、第4水準2−1−6]鬟《あくわん》が来て、「唯今、宝幢寺《はうどうじ》とかにゐると云ふ、坊さんが御見えになりまして、是非、御主人に御目にかゝりたいと申しますが、いかゞ致しませう。」と云ふ。
「なに、宝幢寺?」かう云つて、劉は小さな眼《め》を、まぶしさうに、しばたたいたが、やがて、暑さうに肥つた体を起しながら、「では、こゝへ御通し申せ。」と云ひつけた。それから、孫先生の顔をちよいと見て「大方あの坊主でせう。」とつけ加へた。
 宝幢寺にゐる坊主と云ふのは、西域《せいいき》から来た蛮僧である。これが、医療も加へれば、房術も施すと云ふので、この界隈では、評判が高い。たとへば、張三の黒内障が、忽、快方に向つたとか、李四の病閹《べうえん》が、即座に平癒したとか、殆、奇蹟に近い噂が盛に行はれてゐるのである。――この噂は、二人とも聞いてゐた。その蛮僧が、今、何の用で、わざわざ、劉の所へ出むいて来たのであらう。勿論、劉の方から、迎へにやつた覚えなどは、全然ない。
 序に云つて置くが、劉は、一体、来客を悦ぶやうな男ではない。が、他《た》に一人、来客がある場合に、新来の客が来たとなると、大抵ならば、快く会つてやる。客の手前、客のあるのを自慢するとでも云つたらよささうな、小供らしい虚栄心を持つてゐるからである。それに、今日の蛮僧は、この頃、どこででも評判になつてゐる。決して、会つて恥しいやうな客ではない。――劉が会はうと云ひ出した動機は、大体こんな所にあつたのである。
「何の用でせう。」
「まづ、物貰ひですな。信施《しんぜ》でもしてくれと云ふのでせう。」
 こんな事を、二人で話してゐる内に、やがて、※[#「Y」に似た字、第4水準2−1−6]鬟《あくわん》の案内で、はいつて来たのを見ると、背《せい》の高い、紫石稜《しせきれう》のやうな眼をした、異形《いぎやう》な沙門である。黄色い法衣《ころも》を着て、その肩に、縮れた髪の伸びたのを、うるささうに垂らしてゐる。それが、朱柄の麈尾《しゆび》を持つたまゝ、のつそり室《へや》のまん中に立つた。挨拶もしなければ、口もきかない。
 劉は、しばらく、ためらつてゐたが、その内に、それが何となく、不安になつて来たので「何か御用かな。」と訊いて見た。
 すると、蛮僧が云つた。「あなたでせうな、酒が好きなのは。」
「さやう。」劉は、あまり問が唐突《だしぬけ》なので、曖昧な返事をしながら、救を求めるやうに、孫先生の方を見た。孫先生は、すまして、独りで、盤面に石を下してゐる。まるで、取り合ふ容子はない。
「あなたは、珍しい病に罹つて御出になる。それを御存知ですかな。」蛮僧は念を押すやうに、かう云つた。劉は、病と聞いたので、けげんな顔をして、竹婦人を撫《な》でながら、
「病――ですかな。」
「さうです。」
「いや、幼少の時から……」劉が何か云はうとすると、蛮僧はそれを遮《さへぎ》つて、
「酒を飲まれても、酔ひますまいな。」
「……」劉は、ぢろぢろ、相手の顔を見ながら、口を噤《つぐ》んでしまつた。実際この男は、いくら酒を飲んでも、酔つた事がないのである。
「それが、病の証拠ですよ。」蛮僧は、うす笑《わらひ》をしながら、語をついで、「腹中に酒虫がゐる。それを除かないと、この病は癒《なほ》りません。貧道は、あなたの病を癒しに来たのです。」
「癒りますかな。」劉は思はず覚束《おぼつか》なさうな声を出した。さうして、自分でそれを恥ぢた。
「癒ればこそ、来ましたが。」
 すると、今まで、黙つて、問答を聞いてゐた孫先生が、急に語を挟んだ。
「何か、薬でも御用ひか。」
「いや、薬なぞは用ひるまでもありません。」蛮僧は不愛想《ぶあいさう》に、かう答へた。
 孫先生は、元来、道仏の二教を殆、無理由に軽蔑してゐる。だから、道士とか僧侶とかと一しよになつても、口をきいた事は滅多《めつた》にない。それが、今ふと口を出す気になつたのは、全く酒虫と云ふ語の興味に動かされたからで、酒の好きな先生は、これを聞くと、自分の腹の中にも、酒虫がゐはしないかと、聊《いささか》、不安になつて来たのである。所が、蛮僧の不承不承な答を聞くと、急に、自分が莫迦《ばか》にされたやうな気がしたので、先生はちよいと顔をしかめながら、又元の通り、黙々として棋子を下しはじめた。さうして、それと同時に、内心、こんな横柄な坊主に会つたり何ぞする主人の劉を、莫迦げてゐると思ひ出した。
 劉の方では、勿論そんな事には頓着《とんちやく》しない。
「では、針でも使ひますかな。」
「なに、もつと造作のない事です。」
「では呪《まじなひ》ですかな。」
「いや、呪でもありません。」
 かう云ふ会話を繰返した末に、蛮僧は、簡単に、その療法を説明して聞かせた。――それによるに、唯、裸になつて、日向《ひなた》にぢつとしてゐさへすればよいと云ふのである。劉には、それが、甚、容易な事のやうに思はれた。その位の事で癒るなら、癒して貰ふのに越した事はない。その上、意識してはゐなかつたが、蛮僧の治療を受けると云ふ点で、好奇心も少しは動いてゐた。
 そこでとうとう、劉も、こつちから頭を下げて、「では、どうか一つ、癒して頂きませう。」と云ふ事になつた。――劉が、裸で、炎天の打麦場にねころんでゐるのには、かう云ふ謂《いは》れが、あるのである。
 すると蛮僧は、身動きをしてはいけないと云ふので、劉の体を細引で、ぐるぐる巻にした。それから、僮僕《どうぼく》の一人に云ひつけて、酒を入れた素焼の瓶を一つ、劉の枕もとへ持つて来させた。当座の行きがかりで、糟邱《そうきう》の良友たる孫先生が、この不思議な療治に立合ふ事になつたのは云ふまでもない。
 酒虫と云ふ物が、どんな物だか、それが腹の中にゐなくなると、どうなるのだか、枕もとにある酒の瓶は、何にするつもりなのだか、それを知つてゐるのは、蛮僧の外に一人もない。かう云ふと、何も知らずに、炎天へ裸で出てゐる劉は、甚、迂濶《うくわつ》なやうに思はれるが、普通の人間が、学校の教育などをうけるのも、実は大抵、これと同じやうな事をしてゐるのである。

       三

 暑い。額へ汗がぢりぢりと湧いて来て、それが玉になつたかと思ふと、つうつと生暖《なまあつたか》く、眼の方へ流れて来る。生憎、細引でしばられてゐるから、手を出して拭ふ訳には、勿論行かない。そこで、首を動かして、汗の進路を変へやうとすると、その途端に、はげしく眩暈《めまひ》がしさうな気がしたので、残念ながら、この計画も亦、見合せる事にした。その中に、汗は遠慮なく、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》をぬらして、鼻の側から口許《くちもと》をまはりながら、頤の下まで流れて行く。気味が悪い事|夥《おびただ》しい。
 それまでは、眼を開《あ》いて、白く焦された空や、葉をたらした麻畑を、まじ/\と眺めてゐたが、汗が無暗《むやみ》に流れるやうになつてからは、それさへ断念しなければならなくなつた。劉は、この時、始めて
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