ょう。」
「人ずれはちっともしていらっしゃいませんね。」
「それは何しろ坊ちゃんですから、……しかしもう一通《ひととお》りのことは心得ていると思いますが。」
 僕はこう云う話の中にふと池の水際《みずぎわ》に沢蟹《さわがに》の這《は》っているのを見つけました。しかもその沢蟹はもう一匹の沢蟹を、――甲羅《こうら》の半ば砕けかかったもう一匹の沢蟹をじりじり引きずって行くところなのです。僕はいつかクロポトキンの相互扶助論《そうごふじょろん》の中にあった蟹の話を思い出しました。クロポトキンの教えるところによれば、いつも蟹は怪我《けが》をした仲間を扶《たす》けて行ってやると云うことです。しかしまたある動物学者の実例を観察したところによれば、それはいつも怪我《けが》をした仲間を食うためにやっていると云うことです。僕はだんだん石菖《せきしょう》のかげに二匹の沢蟹の隠れるのを見ながら、M子さんのお母さんと話していました。が、いつか僕等の話に全然興味を失っていました。
「みんなの帰って来るのは夕がたでしょう?」
 僕はこう言って立ち上りました。同時にまたM子さんのお母さんの顔にある表情を感じました。それはちょっとした驚きと一しょに何か本能的な憎しみを閃《ひらめ》かせている表情です。けれどもこの奥さんはすぐにもの静かに返事をしました。
「ええ、M子もそんなことを申しておりました。」
 僕は僕の部屋へ帰って来ると、また縁先《えんさき》の手すりにつかまり、松林の上に盛り上ったY山の頂《いただき》を眺めました。山の頂は岩むらの上に薄い日の光をなすっています。僕はこう云う景色を見ながら、ふと僕等人間を憐みたい気もちを感じました。……
 M子さん親子はS君と一しょに二三日|前《まえ》に東京へ帰りました。K君は何でもこの温泉宿へ妹さんの来るのを待ち合せた上、(それは多分僕の帰るのよりも一週間ばかり遅れるでしょう。)帰り仕度《したく》をするとか云うことです。僕はK君と二人だけになった時に幾分か寛《くつろ》ぎを感じました。もっともK君を劬《いたわ》りたい気もちの反《かえ》ってK君にこたえることを惧《おそ》れているのに違いありません。が、とにかくK君と一しょに比較的|気楽《きらく》に暮らしています。現にゆうべも風呂《ふろ》にはいりながら、一時間もセザアル・フランクを論じていました。
 僕は今僕の部屋にこの手紙を書いています。ここはもう初秋《しょしゅう》にはいっています。僕はけさ目を醒《さ》ました時、僕の部屋の障子《しょうじ》の上に小さいY山や松林の逆《さか》さまに映っているのを見つけました。それは勿論戸の節穴《ふしあな》からさして来る光のためだったのです。しかし僕は腹ばいになり、一本の巻煙草をふかしながら、この妙に澄み渡った、小さい初秋の風景にいつにない静かさを感じました。………
 ではさようなら。東京ももう朝晩は大分《だいぶ》凌《しの》ぎよくなっているでしょう。どうかお子さんたちにもよろしく言って下さい。
[#地から1字上げ](昭和二年六月七日)



底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
   1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年2月3日公開
2004年3月10日修正
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