め取ろうと致しました。が、摩利信乃法師は憎さげに、火長たちを見やりながら、
「打たば打て。取らば取れ。但《ただし》、天上皇帝の御罰は立ち所に下ろうぞよ。」と、嘲笑《あざわら》うような声を出しますと、その時胸に下っていた十文字の護符が日を受けて、眩《まぶし》くきらりと光ると同時に、なぜか相手は得物を捨てて、昼雷《ひるかみなり》にでも打たれたかと思うばかり、あの沙門の足もとへ、転《まろ》び倒れてしまいました。
「如何に方々。天上皇帝の御威徳は、ただ今|目《ま》のあたりに見られた如くじゃ。」
 摩利信乃法師は胸の護符を外して、東西の廊へ代る代る、誇らしげにさしかざしながら、
「元よりかような霊験《れいげん》は不思議もない。そもそも天上皇帝とは、この天地《あめつち》を造らせ給うた、唯一不二《ゆいいつふじ》の大御神《おおみかみ》じゃ。この大御神を知らねばこそ、方々はかくも信心の誠を尽して、阿弥陀如来なんぞと申す妖魔《ようま》の類《たぐい》を事々しく、供養せらるるげに思われた。」
 この暴言にたまり兼ねたのでございましょう。さっきから誦経《ずきょう》を止めて、茫然と事の次第を眺めていた僧たちは、俄《にわか》にどよめきを挙げながら、「打ち殺せ」とか「搦《から》め取れ」とかしきりに罵り立てましたが、さて誰一人として席を離れて、摩利信乃法師を懲《こら》そうと致すものはございません。

        三十一

 すると摩利信乃法師《まりしのほうし》は傲然と、その僧たちの方を睨《ね》めまわして、
「過てるを知って憚《はばか》る事勿《ことなか》れとは、唐国《からくに》の聖人も申された。一旦、仏菩薩の妖魔たる事を知られたら、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》摩利の教に帰依あって、天上皇帝の御威徳を讃《たた》え奉るに若《し》くはない。またもし、摩利信乃法師の申し条に疑いあって、仏菩薩が妖魔か、天上皇帝が邪神か、決定《けつじょう》致し兼ぬるとあるならば、いかようにも法力《ほうりき》を較《くら》べ合せて、いずれが正法《しょうぼう》か弁別申そう。」と、声も荒らかに呼ばわりました。
 が、何しろただ今も、検非違使《けびいし》たちが目《ま》のあたりに、気を失って倒れたのを見て居《お》るのでございますから、御簾《みす》の内も御簾の外も、水を打ったように声を呑んで、僧俗ともに誰一人、進んであの沙門の法力を試みようと致すものは見えません。所詮は長尾《ながお》の僧都《そうず》は申すまでもなく、その日御見えになっていらしった山の座主《ざす》や仁和寺《にんなじ》の僧正《そうじょう》も、現人神《あらひとがみ》のような摩利信乃法師に、胆《きも》を御|挫《くじ》かれになったのでございましょう。供養の庭はしばらくの間、竜舟《りゅうしゅう》の音楽も声を絶って、造り花の蓮華にふる日の光の音さえ聞えたくらい、しんと静まり返ってしまいました。
 沙門はそれにまた一層力を得たのでございましょう。例の十文字の護符をさしかざして、天狗《てんぐ》のように嘲笑《あざわら》いますと、
「これはまた笑止千万な。南都北嶺とやらの聖《ひじり》僧たちも少からぬように見うけたが、一人《ひとり》としてこの摩利信乃法師と法力を較べようずものも現れぬは、さては天上皇帝を始め奉り、諸天童子の御神光《ごしんこう》に恐れをなして、貴賤|老若《ろうにゃく》の嫌いなく、吾が摩利の法門に帰依し奉ったものと見える。さらば此場において、先ず山の座主《ざす》から一人一人|灌頂《かんちょう》の儀式を行うてとらせようか。」と、威丈高《いたけだか》に罵りました。
 所がその声がまだ終らない中に、西の廊からただ一人、悠然と庭へ御下りになった、尊げな御僧《ごそう》がございます。金襴《きんらん》の袈裟《けさ》、水晶の念珠《ねんず》、それから白い双の眉毛――一目見ただけでも、天《あめ》が下《した》に功徳無量《くどくむりょう》の名を轟かせた、横川《よかわ》の僧都《そうず》だと申す事は疑おうようもございません。僧都は年こそとられましたが、たぶたぶと肥え太った体を徐《おもむろ》に運びながら、摩利信乃法師の眼の前へ、おごそかに歩みを止めますと、
「こりゃ下郎《げろう》。ただ今もその方が申す如く、この御堂《みどう》供養の庭には、法界《ほっかい》の竜象《りゅうぞう》数を知らず並み居られるには相違ない。が、鼠に抛《なげう》つにも器物《うつわもの》を忌《い》むの慣い、誰かその方如き下郎《げろう》づれと、法力の高下を競わりょうぞ。さればその方は先ず己を恥じて、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》この宝前を退散す可き分際ながら、推して神通《じんずう》を較べようなどは、近頃以て奇怪至極《きっかいしごく》じゃ。思うにその方は何処《いずこ》かにて金剛邪禅《こんごうじゃぜん》の法を修した外道《げどう》の沙門と心得る。じゃによって一つは三宝の霊験《れいげん》を示さんため、一つはその方の魔縁に惹《ひ》かれて、無間地獄《むげんじごく》に堕ちようず衆生《しゅじょう》を救うてとらさんため、老衲《ろうのう》自らその方と法験《ほうげん》を較べに罷《まか》り出《いで》た。たといその方の幻術がよく鬼神を駆り使うとも、護法の加護ある老衲には一指を触るる事すらよも出来まい。されば仏力《ぶつりき》の奇特《きどく》を見て、その方こそ受戒致してよかろう。」と、大獅子孔《だいししく》を浴せかけ、たちまち印《いん》を結ばれました。

        三十二

 するとその印を結んだ手の中《うち》から、俄《にわか》に一道の白気《はっき》が立上《たちのぼ》って、それが隠々と中空《なかぞら》へたなびいたと思いますと、丁度|僧都《そうず》の頭《かしら》の真上に、宝蓋《ほうがい》をかざしたような一団の靄《もや》がたなびきました。いや、靄と申したのでは、あの不思議な雲気《うんき》の模様が、まだ十分|御会得《ごえとく》には参りますまい。もしそれが靄だったと致しましたら、その向うにある御堂《みどう》の屋根などは霞んで見えない筈でございますが、この雲気はただ、虚空《こくう》に何やら形の見えぬものが蟠《わだか》まったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見透かされたのでございます。
 御庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚いたのでございましょう。またどこからともなく風のようなざわめきが、御簾《みす》を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らない中に、印を結び直した横川《よかわ》の僧都《そうず》が、徐《おもむろ》に肉《しし》の余った顎《おとがい》を動かして、秘密の呪文《じゅもん》を誦《ず》しますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金甲神《きんこうじん》が、勇ましく金剛杵《こんごうしょ》をふりかざしながら、影のような姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻ではございます。が、その宙を踏んで飛舞《ひぶ》する容子《ようす》は、今しも摩利信乃法師《まりしのほうし》の脳上へ、一杵《いっしょ》を加えるかと思うほど、神威を帯びて居ったのでございます。
 しかし当の摩利信乃法師は、不相変《あいかわらず》高慢の面《おもて》をあげて、じっとこの金甲神《きんこうじん》の姿を眺めたまま、眉毛一つ動かそうとは致しません。それどころか、堅く結んだ唇のあたりには、例の無気味《ぶきみ》な微笑の影が、さも嘲りたいのを堪《こら》えるように、漂って居《お》るのでございます。するとその不敵な振舞に腹を据え兼ねたのでございましょう。横川《よかわ》の僧都は急に印を解いて、水晶の念珠《ねんず》を振りながら、
「叱《しっ》。」と、嗄《しわが》れた声で大喝しました。
 その声に応じて金甲神《きんこうじん》が、雲気と共に空中から、舞下《まいくだ》ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬く間、虹のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰《あられ》のように、戞然《かつぜん》と四方へ飛び散りました。
「御坊《ごぼう》の手なみはすでに見えた。金剛邪禅《こんごうじゃぜん》の法を修したとは、とりも直さず御坊の事じゃ。」
 勝ち誇ったあの沙門は、思わずどっと鬨《とき》をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこう罵りました。その声を浴びた横川《よかわ》の僧都が、どんなに御悄《おしお》れなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時御弟子たちが、先を争いながら進みよって、介抱しなかったと致しましたら、恐らく満足には元の廊へも帰られなかった事でございましょう。その間に摩利信乃法師は、いよいよ誇らしげに胸を反《そ》らせて、
「横川《よかわ》の僧都は、今|天《あめ》が下《した》に法誉無上《ほうよむじょう》の大和尚《だいおしょう》と承わったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧を昏《くら》まし奉って、妄《みだり》に鬼神を使役する、云おうようない火宅僧《かたくそう》じゃ。されば仏菩薩は妖魔の類《たぐい》、釈教は堕獄の業因《ごういん》と申したが、摩利信乃法師一人の誤りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰依しょうと思立《おぼした》たれずば、元より僧俗の嫌いはない。何人《なんびと》なりともこの場において、天上皇帝の御威徳を目《ま》のあたりに試みられい。」と、八方を睨《にら》みながら申しました。
 その時、また東の廊に当って、
「応《おう》。」と、涼しく答えますと、御装束の姿もあたりを払って、悠然と御庭へ御下《おお》りになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。[#地から1字上げ](未完)
[#地から1字上げ](大正七年十一月)



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996年(平成8)7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」
   1971(昭和46)年3月〜11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月7日公開
2004年1月31日修正
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