、聖衆《しょうじゅ》の来迎《らいごう》を受けたにも増して、難有《ありがた》く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻《ごせっかん》くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆《きも》を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居《お》るようでございます。この後《のち》とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦《しんたん》までも伝える事でございましょう。」と、素知《そし》らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我《が》を御折りになったと見えて、苦《にが》い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
 こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守《おまも》りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません
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