面《おもて》をあげて、じっとこの金甲神《きんこうじん》の姿を眺めたまま、眉毛一つ動かそうとは致しません。それどころか、堅く結んだ唇のあたりには、例の無気味《ぶきみ》な微笑の影が、さも嘲りたいのを堪《こら》えるように、漂って居《お》るのでございます。するとその不敵な振舞に腹を据え兼ねたのでございましょう。横川《よかわ》の僧都は急に印を解いて、水晶の念珠《ねんず》を振りながら、
「叱《しっ》。」と、嗄《しわが》れた声で大喝しました。
 その声に応じて金甲神《きんこうじん》が、雲気と共に空中から、舞下《まいくだ》ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬く間、虹のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰《あられ》のように、戞然《かつぜん》と四方へ飛び散りました。
「御坊《ごぼう》の手なみはすでに見えた。金剛邪禅《こんごうじゃぜん》の法を修したとは、とりも直さず御坊の事じゃ。」
 勝ち誇ったあの沙門は、思わずどっと鬨《とき》をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこう罵りました。その声を浴びた横川《よかわ》の僧都が、どんなに御悄《おしお》れなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時御弟子たちが、先を争いながら進みよって、介抱しなかったと致しましたら、恐らく満足には元の廊へも帰られなかった事でございましょう。その間に摩利信乃法師は、いよいよ誇らしげに胸を反《そ》らせて、
「横川《よかわ》の僧都は、今|天《あめ》が下《した》に法誉無上《ほうよむじょう》の大和尚《だいおしょう》と承わったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧を昏《くら》まし奉って、妄《みだり》に鬼神を使役する、云おうようない火宅僧《かたくそう》じゃ。されば仏菩薩は妖魔の類《たぐい》、釈教は堕獄の業因《ごういん》と申したが、摩利信乃法師一人の誤りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰依しょうと思立《おぼした》たれずば、元より僧俗の嫌いはない。何人《なんびと》なりともこの場において、天上皇帝の御威徳を目《ま》のあたりに試みられい。」と、八方を睨《にら》みながら申しました。
 その時、また東の廊に当って、
「応《おう》。」と、涼しく答えますと、御装束の姿もあたりを払って、悠然と御庭へ御下《おお》りになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。[#地から1字上げ](未完)
[#地から1字上げ](大正七年十一月)



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996年(平成8)7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」
   1971(昭和46)年3月〜11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月7日公開
2004年1月31日修正
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