進んであの沙門の法力を試みようと致すものは見えません。所詮は長尾《ながお》の僧都《そうず》は申すまでもなく、その日御見えになっていらしった山の座主《ざす》や仁和寺《にんなじ》の僧正《そうじょう》も、現人神《あらひとがみ》のような摩利信乃法師に、胆《きも》を御|挫《くじ》かれになったのでございましょう。供養の庭はしばらくの間、竜舟《りゅうしゅう》の音楽も声を絶って、造り花の蓮華にふる日の光の音さえ聞えたくらい、しんと静まり返ってしまいました。
沙門はそれにまた一層力を得たのでございましょう。例の十文字の護符をさしかざして、天狗《てんぐ》のように嘲笑《あざわら》いますと、
「これはまた笑止千万な。南都北嶺とやらの聖《ひじり》僧たちも少からぬように見うけたが、一人《ひとり》としてこの摩利信乃法師と法力を較べようずものも現れぬは、さては天上皇帝を始め奉り、諸天童子の御神光《ごしんこう》に恐れをなして、貴賤|老若《ろうにゃく》の嫌いなく、吾が摩利の法門に帰依し奉ったものと見える。さらば此場において、先ず山の座主《ざす》から一人一人|灌頂《かんちょう》の儀式を行うてとらせようか。」と、威丈高《いたけだか》に罵りました。
所がその声がまだ終らない中に、西の廊からただ一人、悠然と庭へ御下りになった、尊げな御僧《ごそう》がございます。金襴《きんらん》の袈裟《けさ》、水晶の念珠《ねんず》、それから白い双の眉毛――一目見ただけでも、天《あめ》が下《した》に功徳無量《くどくむりょう》の名を轟かせた、横川《よかわ》の僧都《そうず》だと申す事は疑おうようもございません。僧都は年こそとられましたが、たぶたぶと肥え太った体を徐《おもむろ》に運びながら、摩利信乃法師の眼の前へ、おごそかに歩みを止めますと、
「こりゃ下郎《げろう》。ただ今もその方が申す如く、この御堂《みどう》供養の庭には、法界《ほっかい》の竜象《りゅうぞう》数を知らず並み居られるには相違ない。が、鼠に抛《なげう》つにも器物《うつわもの》を忌《い》むの慣い、誰かその方如き下郎《げろう》づれと、法力の高下を競わりょうぞ。さればその方は先ず己を恥じて、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》この宝前を退散す可き分際ながら、推して神通《じんずう》を較べようなどは、近頃以て奇怪至極《きっかいしごく》じゃ。思うにその方は何処《いずこ》かにて金剛邪禅《こんごうじゃぜん》の法を修した外道《げどう》の沙門と心得る。じゃによって一つは三宝の霊験《れいげん》を示さんため、一つはその方の魔縁に惹《ひ》かれて、無間地獄《むげんじごく》に堕ちようず衆生《しゅじょう》を救うてとらさんため、老衲《ろうのう》自らその方と法験《ほうげん》を較べに罷《まか》り出《いで》た。たといその方の幻術がよく鬼神を駆り使うとも、護法の加護ある老衲には一指を触るる事すらよも出来まい。されば仏力《ぶつりき》の奇特《きどく》を見て、その方こそ受戒致してよかろう。」と、大獅子孔《だいししく》を浴せかけ、たちまち印《いん》を結ばれました。
三十二
するとその印を結んだ手の中《うち》から、俄《にわか》に一道の白気《はっき》が立上《たちのぼ》って、それが隠々と中空《なかぞら》へたなびいたと思いますと、丁度|僧都《そうず》の頭《かしら》の真上に、宝蓋《ほうがい》をかざしたような一団の靄《もや》がたなびきました。いや、靄と申したのでは、あの不思議な雲気《うんき》の模様が、まだ十分|御会得《ごえとく》には参りますまい。もしそれが靄だったと致しましたら、その向うにある御堂《みどう》の屋根などは霞んで見えない筈でございますが、この雲気はただ、虚空《こくう》に何やら形の見えぬものが蟠《わだか》まったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見透かされたのでございます。
御庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚いたのでございましょう。またどこからともなく風のようなざわめきが、御簾《みす》を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らない中に、印を結び直した横川《よかわ》の僧都《そうず》が、徐《おもむろ》に肉《しし》の余った顎《おとがい》を動かして、秘密の呪文《じゅもん》を誦《ず》しますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金甲神《きんこうじん》が、勇ましく金剛杵《こんごうしょ》をふりかざしながら、影のような姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻ではございます。が、その宙を踏んで飛舞《ひぶ》する容子《ようす》は、今しも摩利信乃法師《まりしのほうし》の脳上へ、一杵《いっしょ》を加えるかと思うほど、神威を帯びて居ったのでございます。
しかし当の摩利信乃法師は、不相変《あいかわらず》高慢の
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