色《けしき》はない。と思えば紅《くれない》の袴の裾に、何やら蠢《うごめ》いているものの姿が見えた。それが袴の裾ばかりか、よう見るに従って、肩にも居《お》れば、胸にも居る。中には黒髪の中にいて、えせ笑うらしいものもあった。――」
「と仰有っただけでは解《げ》せませんが、一体何が居ったのでございます。」
この時は平太夫も、思わず知らず沙門《しゃもん》の調子に釣り込まれてしまったのでございましょう。こう尋ねました声ざまには、もうさっきの気負った勢いも聞えなくなって居りました。が、摩利信乃法師は、やはりもの思わしげな口ぶりで、
「何が居ったと申す事は、予自身にもしかとはわからぬ。予はただ、水子《みずご》ほどの怪しげなものが、幾つとなく群って、姫君の身のまわりに蠢《うごめ》いているのを眺めただけじゃ。が、それを見ると共に、夢の中ながら予は悲しゅうなって、声を惜まず泣き叫んだ。姫君も予の泣くのを見て、頻《しきり》に涙を流される。それが久しい間続いたと思うたが、やがて、どこやらで鶏《とり》が啼いて、予の夢はそれぎり覚めてしもうた。」
摩利信乃法師がこう語り終りますと、今度は平太夫も口を噤《つぐ》んで、一しきりやめていた扇をまたも使い出しました。私の甥はその間中|鉤《はり》にかかった鮠《はえ》も忘れるくらい、聞き耳を立てて居りましたが、この夢の話を聞いている中は、橋の下の涼しさが、何となく肌身にしみて、そう云う御姫様の悲しい御姿を、自分もいつか朧げに見た事があるような、不思議な気が致したそうでございます。
その内に橋の上では、また摩利信乃法師の沈んだ声がして、
「予はその怪しげなものを妖魔《ようま》じゃと思う。されば天上皇帝は、堕獄の業《ごう》を負わせられた姫君を憐れと見そなわして、予に教化《きょうげ》を施せと霊夢を賜ったのに相違ない。予がその方の力を藉りて、姫君に御意得たいと申すのは、こう云う仔細があるからじゃ。何と予が頼みを聞き入れてはくれまいか。」
それでもなお、平太夫はしばらくためらっていたようでございますが、やがて扇をつぼめたと思うと、それで欄干を丁《ちょう》と打ちながら、
「よろしゅうございます。この平太夫はいつぞや清水《きよみず》の阪の下で、辻冠者《つじかんじゃ》ばらと刃傷《にんじょう》を致しました時、すんでに命も取られる所を、あなた様の御かげによって、落ち延びる事が出来ました。その御恩を思いますと、あなた様の仰有《おっしゃ》る事に、いやと申せた義理ではございません。摩利《まり》の教とやらに御帰依なさるか、なさらないか、それは姫君の御意次第でございますが、久しぶりであなた様の御目にかかると申す事は、姫君も御嫌《おいや》ではございますまい。とにかく私の力の及ぶ限り、御対面だけはなされるように御取り計らい申しましょう。」
二十四
その密談の仔細を甥の口から私が詳しく聞きましたのは、それから三四日たったある朝の事でございます。日頃は人の多い御屋形の侍所《さむらいどころ》も、その時は私共二人だけで、眩《まば》ゆく朝日のさした植込みの梅の青葉の間からは、それでも涼しいそよ風が、そろそろ動こうとする秋の心もちを時々吹いて参りました。
私の甥はその話を終ってから、一段と声をひそめますと、
「一体あの摩利信乃法師《まりしのほうし》と云う男が、どうして姫君を知って居《お》るのだか、それは元より私にも不思議と申すほかはありませんが、とにかくあの沙門《しゃもん》が姫君の御意を得るような事でもあると、どうもこの御屋形の殿様の御身の上には、思いもよらない凶変でも起りそうな不吉な気がするのです。が、このような事は殿様に申上げても、あの通りの御気象ですから、決して御取り上げにはならないのに相違ありません。そこで、私は私の一存で、あの沙門を姫君の御目にかかれないようにしようと思うのですが、叔父さんの御考えはどういうものでしょう。」
「それはわしも、あの怪しげな天狗法師などに姫君の御顔を拝ませたく無い。が、御主《おぬし》もわしも、殿様の御用を欠かぬ限りは、西洞院《にしのとういん》の御屋形の警護ばかりして居《お》る訳にも行かぬ筈じゃ。されば御主はあの沙門を、姫君の御身のまわりに、近づけぬと云うたにした所で。――」
「さあ。そこです。姫君の思召しも私共には分りませんし、その上あすこには平太夫《へいだゆう》と云う老爺《おやじ》も居りますから、摩利信乃法師が西洞院の御屋形に立寄るのは、迂闊《うかつ》に邪魔も出来ません。が、四条河原の蓆張《むしろば》りの小屋ならば、毎晩きっとあの沙門が寝泊りする所ですから、随分こちらの思案次第で、二度とあの沙門が洛中《らくちゅう》へ出て来ないようにすることも出来そうなものだと思うのです。」
「と云うて、あの
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