こう仰有《おっしゃ》って若殿様は、いつものように晴々と御笑いになりながら、
「その代りその方も、折角これまで参ったものじゃ。序《ついで》ながら予の文を、姫君のもとまで差上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ。」
私はそのときの平太夫の顔くらい、世にも不思議なものを見た事はございません。あの意地の悪そうな、苦《にが》りきった面色《めんしょく》が、泣くとも笑うともつかない気色《けしき》を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろ忙《せわ》しそうに、働かせて居《お》るのでございます。するとその容子《ようす》が、笑止《しょうし》ながら気の毒に思召されたのでございましょう。若殿様は御笑顔《おえがお》を御やめになると、縄尻を控えていた雑色《ぞうしき》に、
「これ、これ、永居は平太夫の迷惑じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい。」と、難有《ありがた》い御諚《ごじょう》がございました。
それから間もなくの事でございます。一夜の内に腰さえ弓のように曲った平太夫は、若殿様の御文をつけた花橘《はなたちばな》の枝を肩にして、這々《ほうほう》裏の御門から逃げ出して参りました。所がその後からまた一人、そっと御門を出ましたのは、私の甥《おい》の侍で、これは万一平太夫が御文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠れにあの老爺《おやじ》の跡をつけたのでございます。
二人の間はおよその所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足《はだし》を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿若葉の※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》のする、築土《ついじ》つづきの都大路《みやこおおじ》を、とぼとぼと歩いて参ります。途々通りちがう菜売りの女などが、稀有《けう》な文使《ふづか》いだとでも思いますのか、迂散《うさん》らしくふり返って、見送るものもございましたが、あの老爺《おやじ》はとんとそれにも目をくれる気色《けしき》はございません。
この調子ならまず何事もなかろうと、一時は私の甥も途中から引き返そうと致しましたが、よもやに引かされて、しばらくは猶も跡を慕って参りますと、丁度|油小路《あぶらのこうじ》へ出ようと云う、道祖《さえ》の神の祠《ほこら》の前で、折からあの辻をこちらへ曲って出た、見慣れない一人の沙門《しゃもん》が、出合いがしらに平太夫と危くつき当りそうになりました。女菩薩《にょぼさつ》の幢《はた》、墨染の法衣《ころも》、それから十文字の怪しい護符、一目見て私の甥は、それが例の摩利信乃法師だと申す事に、気がついたそうでございます。
十七
危くつき当りそうになった摩利信乃法師《まりしのほうし》は、咄嗟《とっさ》に身を躱《かわ》しましたが、なぜかそこに足を止めて、じっと平太夫《へいだゆう》の姿を見守りました。が、あの老爺《おやじ》はとんとそれに頓着する容子《ようす》もなく、ただ、二三歩譲っただけで、相不変《あいかわらず》とぼとぼと寂しい歩みを運んで参ります。さてはさすがの摩利信乃法師も、平太夫の異様な風俗を、不審に思ったものと見えると、こう私の甥は考えましたが、やがてその側まで参りますと、まだ我を忘れたように、道祖《さえ》の神の祠《ほこら》を後《うしろ》にして、佇《たたず》んでいる沙門の眼《ま》なざしが、いかに天狗の化身《けしん》とは申しながら、どうも唯事とは思われません。いや、反《かえ》ってその眼なざしには、いつもの気味の悪い光がなくて、まるで涙ぐんででもいるような、もの優しい潤いが、漂っているのでございます。それが祠の屋根へ枝をのばした、椎の青葉の影を浴びて、あの女菩薩の旗竿を斜《ななめ》に肩へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生の中にたった一度、私の甥にもあの沙門を懐しく思わせたとか申す事でございました。
が、その内に私の甥の足音に驚かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢のさめたように、慌しくこちらを振り向きますと、急に片手を高く挙げて、怪しい九字《くじ》を切りながら、何か咒文《じゅもん》のようなものを口の内に繰返して、※[#「均−土」、第3水準1−14−75]々《そうそう》歩きはじめました。その時の咒文の中に、中御門《なかみかど》と云うような語《ことば》が聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。元よりその間も平太夫の方は、やはり花橘の枝を肩にして、側目《わきめ》もふらず悄々《しおしお》と歩いて参ったのでございます。そこでまた私の甥も、見え隠れにその跡をつけて、とうとう西洞院《にしのとういん》の御屋形まで参ったそうでございますが、時にあの摩利信乃法師の不思議な振舞が気になって、若殿様の御文の事さえ、はては
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