捨児
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浅草《あさくさ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一時|正気《しょうき》を失った

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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「浅草《あさくさ》の永住町《ながすみちょう》に、信行寺《しんぎょうじ》と云う寺がありますが、――いえ、大きな寺じゃありません。ただ日朗上人《にちろうしょうにん》の御木像があるとか云う、相応《そうおう》に由緒《ゆいしょ》のある寺だそうです。その寺の門前に、明治二十二年の秋、男の子が一人捨ててありました。それがまた生れ年は勿論、名前を書いた紙もついていない。――何でも古い黄八丈《きはちじょう》の一つ身にくるんだまま、緒《お》の切れた女の草履《ぞうり》を枕に、捨ててあったと云う事です。
「当時信行寺の住職は、田村日錚《たむらにっそう》と云う老人でしたが、ちょうど朝の御勤めをしていると、これも好《い》い年をした門番が、捨児《すてご》のあった事を知らせに来たそうです。すると仏前に向っていた和尚《おしょう》は、ほとんど門番の方も振り返らずに、「そうか。ではこちらへ抱《だ》いて来るが好い。」と、さも事もなげに答えました。のみならず門番が、怖《こ》わ怖《ご》わその子を抱いて来ると、すぐに自分が受け取りながら、「おお、これは可愛い子だ。泣くな。泣くな。今日《きょう》からおれが養ってやるわ。」と、気軽そうにあやし始めるのです。――この時の事は後《のち》になっても、和尚贔屓《おしょうびいき》の門番が、樒《しきみ》や線香を売る片手間《かたでま》に、よく参詣人へ話しました。御承知かも知れませんが、日錚和尚《にっそうおしょう》と云う人は、もと深川《ふかがわ》の左官だったのが、十九の年に足場から落ちて、一時|正気《しょうき》を失った後《のち》、急に菩提心《ぼだいしん》を起したとか云う、でんぼう[#「でんぼう」に傍点]肌の畸人《きじん》だったのです。
「それから和尚はこの捨児に、勇之助《ゆうのすけ》と云う名をつけて、わが子のように育て始めました。が、何しろ御維新《ごいしん》以来、女気《おんなけ》のない寺ですから、育てると云ったにした所が、容易な事じゃありません。守《も》りをするのから牛乳の世話まで、和尚自身が看経《かんきん》の暇には、面倒を見ると云う始末なのです。何でも一度なぞは勇之助が、風か何か引いていた時、折悪く河岸の西辰《にしたつ》と云う大檀家《おおだんか》の法事があったそうですが、日錚和尚は法衣《ころも》の胸に、熱の高い子供を抱《だ》いたまま、水晶《すいしょう》の念珠《ねんじゅ》を片手にかけて、いつもの通り平然と、読経《どきょう》をすませたとか云う事でした。
「しかしその間《ま》も出来る事なら、生みの親に会わせてやりたいと云うのが、豪傑《ごうけつ》じみていても情《じょう》に脆《もろ》い日錚和尚の腹だったのでしょう。和尚は説教の座へ登る事があると、――今でも行って御覧になれば、信行寺の前の柱には「説教、毎月十六日」と云う、古い札《ふだ》が下《さが》っていますが、――時々和漢の故事を引いて、親子の恩愛を忘れぬ事が、即ち仏恩をも報ずる所以《ゆえん》だ、と懇《ねんごろ》に話して聞かせたそうです。が、説教日は度々めぐって来ても、誰一人進んで捨児の親だと名乗って出るものは見当りません。――いや勇之助が三歳の時、たった一遍、親だと云う白粉焼《おしろいや》けのした女が、尋ねて来た事がありました。しかしこれは捨児を種に、悪事でもたくらむつもりだったのでしょう。よくよく問い質《ただ》して見ると、疑わしい事ばかりでしたから、癇癖《かんぺき》の強い日錚和尚は、ほとんど腕力を振わないばかりに、さんざん毒舌を加えた揚句《あげく》、即座に追い払ってしまいました。
「すると明治二十七年の冬、世間は日清戦争の噂に湧き返っている時でしたが、やはり十六日の説教日に、和尚が庫裡《くり》から帰って来ると、品《ひん》の好《い》い三十四五の女が、しとやかに後《あと》を追って来ました。庫裡には釜をかけた囲炉裡《いろり》の側に、勇之助が蜜柑《みかん》を剥《む》いている。――その姿を一目見るが早いか、女は何の取付《とっつ》きもなく、和尚の前へ手をついて、震える声を抑えながら、「私《わたし》はこの子の母親でございますが、」と、思い切ったように云ったそうです。これにはさすがの日錚和尚も、しばらくは呆気《あっけ》にとられたまま、挨拶《あいさつ》の言葉さえ出ませんでした。が、女は和尚に頓着なく、じっと畳を見つめながら、ほとんど暗誦でもしてい
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