は妙に僕には無気味だった。僕はちょっとためらった後、思い切って部屋の中へはいって行った。それから鏡を見ないようにし、机の前の椅子に腰をおろした。椅子は蜥蜴《とかげ》の皮に近い、青いマロック皮の安楽椅子だった。僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、或短篇を続けようとした。けれどもインクをつけたペンはいつまでたっても動かなかった。のみならずやっと動いたと思うと、同じ言葉ばかり書きつづけていた。All right……All right……All right sir……All right……
そこへ突然鳴り出したのはベッドの側にある電話だった。僕は驚いて立ち上り、受話器を耳へやって返事をした。
「どなた?」
「あたしです。あたし……」
相手は僕の姉の娘だった。
「何だい? どうかしたのかい?」
「ええ、あの大へんなことが起ったんです。ですから、……大へんなことが起ったもんですから。今叔母さんにも電話をかけたんです」
「大へんなこと?」
「ええ、ですからすぐに来て下さい。すぐにですよ」
電話はそれぎり切れてしまった。僕はもとのように受話器をかけ、反射的にベルの鈕《ボタン》を押した。しかし僕の手の震えていることは僕自身はっきり意識していた。給仕は容易にやって来なかった。僕は苛立《いらだ》たしさよりも苦しさを感じ、何度もベルの鈕を押した。やっと運命の僕に教えた「オオル・ライト」と云う言葉を了解しながら。
僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れていない或田舎に轢死《れきし》していた。しかも季節に縁のないレエン・コオトをひっかけていた。僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけている。真夜中の廊下には誰も通らない。が、時々戸の外に翼の音の聞えることもある。どこかに鳥でも飼ってあるのかも知れない。
二 復讐
僕はこのホテルの部屋に午前八時頃に目を醒《さ》ました。が、ベッドをおりようとすると、スリッパアは不思議にも片っぽしかなかった。それはこの一二年の間、いつも僕に恐怖だの不安だのを与える現象だった。のみならずサンダアルを片っぽだけはいた希臘《ギリシャ》神話の中の王子を思い出させる現象だった。僕はベルを押して給仕を呼び、スリッパアの片っぽを探して貰うことにした。給仕はけげん[#「けげん」に傍点]な顔をしながら、狭い部屋の中を探しまわった。
「ここにありました。このバスの部屋の中に」
「どうして又そんな所に行っていたのだろう?」
「さあ、鼠かも知れません」
僕は給仕の退いた後《のち》、牛乳を入れない珈琲《コーヒー》を飲み、前の小説を仕上げにかかった。凝灰岩を四角に組んだ窓は雪のある庭に向っていた。僕はペンを休める度にぼんやりとこの雪を眺めたりした。雪は莟《つぼみ》を持った沈丁花《じんちょうげ》の下に都会の煤煙《ばいえん》によごれていた。それは何か僕の心に傷《いた》ましさを与える眺めだった。僕は巻煙草をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろのことを考えていた。妻のことを、子供たちのことを、就中《なかんずく》姉の夫のことを。……
姉の夫は自殺する前に放火の嫌疑を蒙《こうむ》っていた。それもまた実際仕かたはなかった。彼は家の焼ける前に家の価格に二倍する火災保険に加入していた。しかも偽証罪を犯した為に執行猶予中の体になっていた。けれども僕を不安にしたのは彼の自殺したことよりも僕の東京へ帰る度に必ず火の燃えるのを見たことだった。僕は或《あるい》は汽車の中から山を焼いている火を見たり、或は又自動車の中から(その時は妻子とも一しょだった)常磐橋界隈《ときわばしかいわい》の火事を見たりしていた。それは彼の家の焼けない前にもおのずから僕に火事のある予感を与えない訣には行かなかった。
「今年は家が火事になるかも知れないぜ」
「そんな縁起の悪いことを。……それでも火事になったら大変ですね。保険は碌《ろく》についていないし、……」
僕等はそんなことを話し合ったりした。しかし僕の家は焼けずに、――僕は努めて妄想《もうぞう》を押しのけ、もう一度ペンを動かそうとした。が、ペンはどうしても一行とは楽に動かなかった。僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上に転がったまま、トルストイの Polikouchka を読みはじめた。この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交った、複雑な性格の持ち主だった。しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加えさえすれば、僕の一生のカリカテュアだった。殊に彼の悲喜劇の中に運命の冷笑を感じるのは次第に僕を無気味にし出した。僕は一時間とたたないうちにベッドの上から飛び起きるが早いか、窓かけの垂れた部屋の隅へ力一ぱい本を抛《ほう》りつけた。
「くたばってしまえ!」
すると大きい鼠が一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに床の上を走って行った。僕は一足飛びにバスの部屋へ行き、戸をあけて中を探しまわった。が、白いタッブのかげにも鼠らしいものは見えなかった。僕は急に無気味になり、慌《あわ》ててスリッパアを靴に換えると、人気《ひとげ》のない廊下を歩いて行った。
廊下はきょうも不相変《あいかわらず》牢獄《ろうごく》のように憂鬱だった。僕は頭を垂れたまま、階段を上《あが》ったり下りたりしているうちにいつかコック部屋へはいっていた。コック部屋は存外明るかった。が、片側に並んだ竈《かまど》は幾つも炎を動かしていた。僕はそこを通りぬけながら、白い帽をかぶったコックたちの冷やかに僕を見ているのを感じた。同時に又僕の堕《お》ちた地獄を感じた。「神よ、我を罰し給え。怒り給うこと勿《なか》れ。恐らくは我滅びん」――こう云う祈祷《きとう》もこの瞬間にはおのずから僕の脣《くちびる》にのぼらない訣には行かなかった。
僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映った雪解けの道をせっせと姉の家へ歩いて行った。道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませていた。のみならずどれも一本ごとに丁度僕等人間のように前や後ろを具《そな》えていた。それもまた僕には不快よりも恐怖に近いものを運んで来た。僕はダンテの地獄の中にある、樹木になった魂を思い出し、ビルディングばかり並んでいる電車線路の向うを歩くことにした。しかしそこも一町とは無事に歩くことは出来なかった。
「ちょっと通りがかりに失礼ですが、……」
それは金鈕《きんボタン》の制服を着た二十二三の青年だった。僕は黙ってこの青年を見つめ、彼の鼻の左の側《わき》に黒子《ほくろ》のあることを発見した。彼は帽を脱いだまま、怯《お》ず怯ずこう僕に話しかけた。
「Aさんではいらっしゃいませんか?」
「そうです」
「どうもそんな気がしたものですから、……」
「何か御用ですか?」
「いえ、唯お目にかかりたかっただけです。僕も先生の愛読者の……」
僕はもうその時にはちょっと帽をとったぎり、彼を後ろに歩き出していた。先生、A先生、――それは僕にはこの頃で最も不快な言葉だった。僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた。しかも彼等は何かの機会に僕を先生と呼びつづけていた。僕はそこに僕を嘲《あざけ》る何ものかを感じずにはいられなかった。何ものかを?――しかし僕の物質主義は神秘主義を拒絶せずにはいられなかった。僕はつい二三箇月前にも或小さい同人雑誌にこう云う言葉を発表していた。――「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」……
姉は三人の子供たちと一しょに露地の奥のバラックに避難していた。褐色の紙を貼ったバラックの中は外よりも寒いくらいだった。僕等は火鉢に手をかざしながら、いろいろのことを話し合った。体の逞《たくま》しい姉の夫は人一倍|痩《や》せ細った僕を本能的に軽蔑《けいべつ》していた。のみならず僕の作品の不道徳であることを公言していた。僕はいつも冷やかにこう云う彼を見おろしたまま、一度も打ちとけて話したことはなかった。しかし姉と話しているうちにだんだん彼も僕のように地獄に堕ちていたことを悟り出した。彼は現に寝台車の中に幽霊を見たとか云うことだった。が、僕は巻煙草に火をつけ、努めて金《かね》のことばかり話しつづけた。
「何しろこう云う際だしするから、何もかも売ってしまおうと思うの」
「それはそうだ。タイプライタアなどは幾らかになるだろう」
「ええ、それから画などもあるし」
「次手《ついで》にNさん(姉の夫)の肖像画も売るか? しかしあれは……」
僕はバラックの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、迂濶《うかつ》に常談も言われないのを感じた。轢死した彼は汽車の為に顔もすっかり肉塊になり、僅かに唯|口髭《くちひげ》だけ残っていたとか云うことだった。この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違いなかった。しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしていた。僕は光線の加減かと思い、この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺めるようにした。
「何をしているの?」
「何でもないよ。……唯あの肖像画は口のまわりだけ、……」
姉はちょっと振り返りながら、何も気づかないように返事をした。
「髭だけ妙に薄いようでしょう」
僕の見たものは錯覚ではなかった。しかし錯覚ではないとすれば、――僕は午飯《ひるめし》の世話にならないうちに姉の家を出ることにした。
「まあ、善いでしょう」
「又あしたでも、……きょうは青山まで出かけるのだから」
「ああ、あすこ? まだ体の具合は悪いの?」
「やっぱり薬ばかり嚥《の》んでいる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴェロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」
三十分ばかりたった後、僕は或ビルディングへはいり、昇降機《リフト》に乗って三階へのぼった。それから或レストオランの硝子戸を押してはいろうとした。が、硝子戸は動かなかった。のみならずそこには「定休日」と書いた漆塗りの札も下っていた。僕は愈《いよいよ》不快になり、硝子戸の向うのテエブルの上に林檎《りんご》やバナナを盛ったのを見たまま、もう一度往来へ出ることにした。すると会社員らしい男が二人何か快活にしゃべりながら、このビルディングにはいる為に僕の肩をこすって行った。彼等の一人はその拍子に「イライラしてね」と言ったらしかった。
僕は往来に佇《たたず》んだなり、タクシイの通るのを待ち合せていた。タクシイは容易に通らなかった。のみならずたまに通ったのは必ず黄いろい車だった。(この黄いろいタクシイはなぜか僕に交通事故の面倒をかけるのを常としていた)そのうちに僕は縁起の好い緑いろの車を見つけ、とにかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。
「イライラする、――tantalizing――Tantalus――Inferno……」
タンタルスは実際硝子戸越しに果物を眺めた僕自身だった。僕は二度も僕の目に浮んだダンテの地獄を詛《のろ》いながら、じっと運転手の背中を眺めていた。そのうちに又あらゆるものの※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放ったりした。が、何か心臓をしめられる感じは去らなかった。
緑いろのタクシイはやっと神宮前へ走りかかった。そこには或精神病院へ曲る横町が一つある筈だった。しかしそれもきょうだけはなぜか僕にはわからなかった。僕は電車の線路に沿い、何度もタクシイを往復させた後、とうとうあきらめておりることにした。
僕はやっとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲って行った。するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。それはかれこれ十年前にあった夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さえ通ったことのない建物だった。十年|前《ぜん》の僕も幸福ではなかった。しかし少くとも平和だった。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石《そうせき》山房」の芭蕉《ばしょう》を思い出しながら、何か僕の一生も一段
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