った。或額縁屋の飾り窓はベエトオヴェンの肖像画を掲げていた。それは髪を逆立てた天才そのものらしい肖像画だった。僕はこのベエトオヴェンを滑稽に感ぜずにはいられなかった。……
 そのうちにふと出合ったのは高等学校以来の旧友だった。この応用化学の大学教授は大きい中折れ鞄《かばん》を抱え、片目だけまっ赤に血を流していた。
「どうした、君の目は?」
「これか? これは唯の結膜炎さ」
 僕はふと十四五年以来、いつも親和力を感じる度に僕の目も彼の目のように結膜炎を起すのを思い出した。が、何とも言わなかった。彼は僕の肩を叩き、僕等の友だちのことを話し出した。それから話をつづけたまま、或カッフェへ僕をつれて行った。
「久しぶりだなあ。朱舜水《しゅしゅんすい》の建碑式以来だろう」
 彼は葉巻に火をつけた後、大理石のテエブル越しにこう僕に話しかけた。
「そうだ。あのシュシュン……」
 僕はなぜか朱舜水と云う言葉を正確に発音出来なかった。それは日本語だっただけにちょっと僕を不安にした。しかし彼は無頓着にいろいろのことを話して行った。Kと云う小説家のことを、彼の買ったブル・ドッグのことを、リウイサイトと云う毒|
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