られなかった。
 やっと彼の帰った後、僕はベッドの上に転がったまま、「暗夜行路」を読みはじめた。主人公の精神的闘争は一々僕には痛切だった。僕はこの主人公に比べると、どのくらい僕の阿呆《あほう》だったかを感じ、いつか涙を流していた。同時に又涙は僕の気もちにいつか平和を与えていた。が、それも長いことではなかった。僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じ出した。歯車はやはりまわりながら、次第に数を殖やして行った。僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、○・八グラムのヴェロナアルを嚥《の》み、とにかくぐっすり眠ることにした。
 けれども僕は夢の中に或プウルを眺めていた。そこには又|男女《なんにょ》の子供たちが何人も泳いだりもぐったりしていた。僕はこのプウルを後ろに向うの松林へ歩いて行った。すると誰か後ろから「おとうさん」と僕に声をかけた。僕はちょっとふり返り、プウルの前に立った妻を見つけた。同時に又烈しい後悔を感じた。
「おとうさん、タオルは?」
「タオルはいらない。子供たちに気をつけるのだよ」
 僕は又歩みをつづけ出した。が、僕の歩いているのはいつかプラットフォオムに変っていた。
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