」
僕はバラックの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、迂濶《うかつ》に常談も言われないのを感じた。轢死した彼は汽車の為に顔もすっかり肉塊になり、僅かに唯|口髭《くちひげ》だけ残っていたとか云うことだった。この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違いなかった。しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしていた。僕は光線の加減かと思い、この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺めるようにした。
「何をしているの?」
「何でもないよ。……唯あの肖像画は口のまわりだけ、……」
姉はちょっと振り返りながら、何も気づかないように返事をした。
「髭だけ妙に薄いようでしょう」
僕の見たものは錯覚ではなかった。しかし錯覚ではないとすれば、――僕は午飯《ひるめし》の世話にならないうちに姉の家を出ることにした。
「まあ、善いでしょう」
「又あしたでも、……きょうは青山まで出かけるのだから」
「ああ、あすこ? まだ体の具合は悪いの?」
「やっぱり薬ばかり嚥《の》んでいる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴェロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」
三十分ばかりたった
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