上を走って行った。僕は一足飛びにバスの部屋へ行き、戸をあけて中を探しまわった。が、白いタッブのかげにも鼠らしいものは見えなかった。僕は急に無気味になり、慌《あわ》ててスリッパアを靴に換えると、人気《ひとげ》のない廊下を歩いて行った。
 廊下はきょうも不相変《あいかわらず》牢獄《ろうごく》のように憂鬱だった。僕は頭を垂れたまま、階段を上《あが》ったり下りたりしているうちにいつかコック部屋へはいっていた。コック部屋は存外明るかった。が、片側に並んだ竈《かまど》は幾つも炎を動かしていた。僕はそこを通りぬけながら、白い帽をかぶったコックたちの冷やかに僕を見ているのを感じた。同時に又僕の堕《お》ちた地獄を感じた。「神よ、我を罰し給え。怒り給うこと勿《なか》れ。恐らくは我滅びん」――こう云う祈祷《きとう》もこの瞬間にはおのずから僕の脣《くちびる》にのぼらない訣には行かなかった。
 僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映った雪解けの道をせっせと姉の家へ歩いて行った。道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませていた。のみならずどれも一本ごとに丁度僕等人間のように前や後ろを具《そな》えていた。それもまた僕に
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